軍勢が整うのを待っていた

いきなり九州まで進出というのは、いささか大げさだが信長も、備中高松城での戦いを毛利を完全に屈服させるよい機会と考えていたのは確かであろう。すぐに明智光秀のほか、池田恒興や高山右近などにも出陣の命令が下っている。

信長は好機とみているが、信長の動きには意外に時間がかかっている。安土城を出発したのは5月29日の早朝のことである。

近江国蒲生郡安土城
近江国蒲生郡安土城(写真=大阪城天守閣所蔵/岩崎鴎雨/PD-Japan/Wikimedia Commons

信長の上洛を知った公家らは出迎えにいくが、迎えは無用であるとの返事を受けて公家らが引き返したと吉田神社(京都市左京区)の神官・吉田兼見の『兼見卿記』には記されている。

ここからの数日、信長は公家や僧侶、町人などの訪問を受けて、時には歓談をしている。この間、勧修寺晴豊の日記には出陣が6月4日とも言及されている。つまり、この時点で信長は安土城から出陣したのではなく、京都で準備をしている段階だったことがわかる。

つまり、口だけとはいえ「このまま九州まで」などといってるわけだから、やる気満々で西へ急いでいるのかと思いきや、軍勢が整うのを待っていたわけだ。しかし、信長は漫然とまっていたわけではない。というのも、出陣するなら、その前に片付けなければならない問題が、山積みだったのだ。

茶会・暦・三職推任…京都でしか片付けられない問題

まず茶の湯である。信長は上洛にあわせて、安土から名物茶器38点をわざわざ京都へ運ばせていた。6月1日には博多の豪商・島井宗室らを招いて茶会を開いているが、これは単なる遊興ではなく、さまざまな交渉の場でもあった。それだけ、信長がわざわざ会わないと解決しない問題は多かったのである。

さらに大きいのが、暦の問題である。この年、信長は朝廷の宣明暦と尾張で使われていた三島暦のどちらが正しいかを討論させ、2月に宣明暦でいったん決着させていた。ところが、宣明暦が日食を予測できていなかったことから、問題は蒸し返される。朝廷の専権事項である暦にまで、信長は意見しなければならなかったわけだ。

これに加えて、いわゆる「三職推任」問題がある。朝廷が信長に太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに就任するよう打診していたというものだ。信長がどう返答するつもりだったかは謎のままだが、早く解決しなければならない問題だったのは間違いないだろう。

こうした問題を処理するには、安土城ではいささか遠い。出陣の準備を口実に京都に滞在して処理するのは、効率的だった。