明智光秀の置かれた立場

ところで近年、本能寺に宿泊する信長を襲撃したのは利三で、光秀は8キロほど離れた鳥羽(京都市南区)にいたという記述が、加賀藩の兵学者だった関屋政春がまとめた『乙夜之書物』のなかに見つかった。斎藤利三の三男で、父と一緒に本能寺を襲撃した利宗が語ったことを、甥の井上重成が書き留めた内容なので、信憑性は高いと思われる。

〈本能寺ヱハ明知弥平次斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカヱタリ(本能寺へは明智秀満と斎藤利三が率いる2000余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた)〉というのだが、自分の手で信長を討ちたいという利三の思いがくみとれるようだ。

実際、同書によれば、前日に光秀が謀反を打ち明けると、利三は「これまで謀反をずっと延期してきた。先鋒は私が務める」と主張したという。いつからなぜ延期したのかわからないが、利三が前のめりだったことは伝わる。

では、光秀はどんなスタンスだったのか。むろん光秀自身、信長の四国政策の変更で大いに苦慮したが、利三にくらべればマシだったといえる。というのも、利三の場合は、それが一族の滅亡にもつながりかねなかった。

戦国大名の領国統治にとっては、家臣団または軍団こそが命綱だった。その結束が崩れれば、統治することも戦争を遂行することもできなかったからである。このとき光秀の軍団では、その要である筆頭家老の斎藤利三が、一族が滅びかねないほどの危機に追いやられていた。しかも利三自身が、信長から切腹を命じられるほどの事態も生じていた。

斎藤家を守ることが明智家を守ることだ、という戦国の常識に照らすと、光秀が信長を討った理由も、直接手を下すのは斎藤利三にまかせた理由も、見えてくるように思う。

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