斉藤利三の重要な役割
「豊臣兄弟!」も第27回「本能寺の変」(7月12日放送)からは、光秀の筆頭家老の斎藤利三(内藤剛志)が重要な役割を果たすようだ。天正10年(1582)6月2日未明、光秀は利三に「みなに伝えよ、出陣じゃ。これは上意である。敵は本能寺にあり」と伝える。それを受け、利三は軍勢を率いて本能寺に宿泊する信長を襲撃する。
ドラマの斎藤利三が、この襲撃にどれくらい前のめりに描かれるかわからないが、史実においては積極的だったと思われる。それには複数の理由があった。
最初の理由は、前述の「四国説」と強く結びついている。というのは、利三は縁戚関係で長宗我部家と深く結びついていたのである。
長宗我部元親の妻は、美濃(岐阜県南部)の豪族出身で室町幕府の奉公衆だった石谷光政の娘である。この石谷家と斎藤利三が深い関係にあった。というのは、光政は利三の母の再婚相手だったから、光政は利三の義理の父に、元親の妻は義理の妹に該当した。また、利三の実兄は光政の養嗣子となって石谷頼辰を名乗り、光政の娘を娶っていた。
このように石谷家は斎藤家とほぼ同体で、その石谷家は元親との婚姻関係を通じて長宗我部家と切っても切れない関係にあった。
長宗我部との難交渉
最初はこの関係がうまく機能した。光秀は斎藤利三が元親と縁戚関係にあればこそ、信長から長宗我部家の取次を命じられ、その当時は大坂本願寺(大阪市中央区)を後方支援して信長をてこずらせていた阿波の三好一族を、元親を通じて牽制できた。光秀も利三も、この縁戚関係がゆえに、信長から評価されたのである。
天正6年(1578)10月、元親の嫡男は信長から「信」の字を偏諱としてあたえられ、信親と名乗ることになった。このころは信長と元親の戦略が一致し、それをつないだのが光秀だったから、光秀は鼻高々だったはずである。さらに細かくいえば、両者のあいだを直接的に取り持っていたのは斎藤利三で、現場での交渉役は実兄の石谷頼辰だった。
いわば、光秀は筆頭家老たる斎藤利三の縁戚関係のおかげで、自分が織田家中で存在感を示すことができ、利三は一族を総動員することで、光秀の御恩に対して奉公することができた。
ところが、信長の方針転換で状況は一変した。とりわけ利三にとっては、斎藤家と石谷家の存立基盤であった長宗我部家に対して、筋の通らない話をぶつけて、受け入れさせなければならないことになったのである。

