信長に振り回され続ける

元親の嫡男に「信」の字をあたえた3年後の天正9年(1581)、信長は元親に、土佐一国と阿波南部の2郡の支配は許すから、制圧したそれ以外の領土は差し出すよう命じた。これに元親が難色を示すと、さらに条件を厳しくし、統治を許すのを土佐一国に制限した。

これに対して光秀と利三は、長宗我部家を存続させるためにも信長の命令に従うように必死の説得を試みている。さすがの元親もそれなりに観念したようだ。平成26年(2014)に発見された『石谷家文書』には、本能寺の変のわずか10日ほど前、元親から利三宛てに譲歩案が送られてきたと書かれている。その内容は、阿波からの撤退は検討するが、阿波の一部の城だけは自分のものとして残せないか、というものだった。

ところが、信長はそれを無視し、三男の信孝を総大将にして四国への出兵を決めてしまう。光秀と利三はそれまでも大いに苦慮させられてきた。だが、元親の討伐を目標とした四国出兵となると、もはや次元が異なる。利三にとっては、一族の拠り所が滅ぼされることを意味した。

ここまでが、斎藤利三が信長の襲撃に前のめりになった理由の1つ目である。

変の5日前にあった切腹命令

加えて、『当代記』などの史料によれば、本能寺の変の直前、斎藤利三は信長から切腹を命じられていたという。経緯は以下のとおりだ。

本能寺本堂
本能寺本堂(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

利三は美濃の斎藤家に連なる家柄で、その支配下にあった西美濃三人衆の一人で、信長に寝返った稲葉一鉄に仕えていて、ある時期、光秀に引き抜かれ、筆頭家老にまで引き上げられていた。その後、光秀は、稲葉一鉄の家老の那波直治も家臣にしたが、光秀に2人も家臣を引き抜かれた一鉄は反発。信長に泣きつくと、信長は光秀に、直治を稲葉家に返すように言い渡した。

光秀が直治を引き抜いた際に仲介したのが、元稲葉家家臣である利三だったのだが、なんと信長は、光秀の筆頭家老となっていた利三に切腹を命じてしまう。周囲の取り成しもあって切腹は免れたものの、信長に対する利三の不信感がさらに高まったことは、想像に難くない。