村重の謀反で、もとの主君・小寺政職が裏切った
まず、もともとの主君である小寺政職の問題だ。官兵衛は1577年にいち早く、主君を口説き織田につくことを決めた。これを進言したのだから、機を見るに敏な人物であることは確かだろう。しかし、アフターケアはまったくなっていない。翌1578年に村重が謀反を起こすと政職は、これに呼応してすぐさま裏切っているのである。この裏切りに際しての官兵衛の立ち振る舞いを『黒田家譜』では、こう書いている。
孝高小寺を諫て曰、我子を信長公へ人質に参らせ置たれば、夫を捨て候に不便に存じ、ひとへにかように申にはあらず。信長終に天下の主と成給ふべき人なり。
筆者訳
官兵衛(孝高)は、主君の小寺政職を諫めて言った。
「私は自分の子供(のちの黒田長政)を信長公へ人質として差し出しておりますが、その我が子を見捨てるのが不憫に思うから、ただそれだけの私情でこのようなことを申し上げているのではありません。信長公というお方は、最終的には必ずや天下の主(支配者)におなりになるべき人物だからこそ(裏切ってはならないと)申し上げているのです」
しかし、意志を変えぬ政職に官兵衛は、ついにこう決意する。
“官兵衛は高潔であり、被害者だった”というロジック
小寺殿に叛き合戦に及ばん事不義の至なり。当家の運尽きずば我身に災難なかるべし。若小寺殿にうたがはれ討るるとも、我不義にあらず。運命の寄る所なれば、なげくべき道に非ず。元より武門に生れては、義にあたりて命を惜むべきにあらずと宣へば、職隆も孝高が覚悟尤もなり。一筋に信長公を主君と仰ぎ、又小寺殿を旗頭と頼む上は、彌信長公に二心なく、又小寺殿に背かざるが、只今当然の義理なり。
筆者訳
「(かと言って)今さら小寺殿に反旗を翻し、戦を交えるなどということは、不義の極み(臣下にあるまじき不忠)である。我が黒田家の武運がまだ尽きていないのであれば、私の身に災難など降りかからないはずだ。もし小寺殿に(織田への内通を)疑われて討たれるようなことがあろうとも、私自身が不義を働いたわけではない。すべては運命の行き着くところなのだから、嘆くようなことではない。もともと武人の家に生まれたからには、大義を前にして命を惜しむべきではない」
これまた貝原益軒の才能が溢れる記述である。ようは「子供がかわいいからじゃないです、信長様が勝ち組だからです!」と政職を説得したが果たせなかった。かくなる上は裏切るしか無いのだが「殺されたら運命だから仕方ない……俺たちは信長にも、小寺にも背かない」と決断したと言い張っているのだ。
つまり、主君を説得できなかったのは、無能だからではない。官兵衛が高潔であり、被害者だったのだと、力技なロジックに持ち込んでいるのである。

