黒田家が“自慢したいがための書物”
どうだろう? 現代語訳してみると、改めてご都合主義的な展開が浮かび上がってくる。宇喜多直家といえば、主家を乗っ取り、親類すら謀殺し、状況に応じて東(織田)と西(毛利)を天秤にかけ続けた、戦国時代屈指の謀略のプロである。
それが、播磨の国人に毛が生えたレベルの家老が「信長は強い、毛利なんてダメだぞ」と語ったところで、すぐに納得するものだろうか? もうこれだけで『黒田家譜』が「当家は、秀吉に天下を取らせた天才軍師の家系である」ということを自慢したいがための書物であることがみえてくる。
しかも、書いたのが当時では随一の儒学者にして物知りだった貝原益軒だったのが強い。
この味方につく可能性が極めて低い敵を弁舌だけで帰服させるのは、中国史の文献での定番である。例えば『三国志演義』における、赤壁の戦いの前段が、それだ。ここで孔明は孫権に対して、劉備と共に曹操軍と戦うべき理由を説き、納得させている。孔明の天才軍師ぶりを語るエピソードの一つだ。
このエピソード、官兵衛のエピソードとどことなく似ている。パクってというより、事実をもとにプロットを利用して、官兵衛の活躍を説明しているように見えるのだ。
これによって「官兵衛はすごい」とわかりやすく理解できるのだから、貝原益軒の筆は冴えている。となると、もっとも優れていたのは「黒田家の歴史をまとめるなら、名高い貝原益軒先生に描いて貰うといいでしょう」と提案した名も無き家臣ではなかろうか。
「地元の便利な協力者」だったのではないか
もちろん、秀吉が官兵衛を有能な軍師として重用していたのは事実である。『黒田家文書』を見ると、播磨への出陣後、秀吉は味方した官兵衛に感謝の書状を送っているし、所領を与えることや、人質を粗略に扱わないことについて起請文まで認めている。
とはいえ、これはあくまで官兵衛の利用価値を期待してのものにすぎないともいえる。そもそも、最初から「国人の家老がいきなり味方についてきた」のだから当然である。秀吉にしてみれば、播磨に乗り込んだ時点で官兵衛は「向こうから転がり込んできた地元の人脈」だ。
姫路城を提供され、土地勘のある案内役までついてきたのだから、感謝の書状を送るのは当たり前で、むしろ送らない理由がない。起請文だって「大事に使いますから逃げないでね」という引き留め工作と読める。つまり官兵衛は、天才軍師として抜擢されたのではなく、最初から「地元の便利な協力者」として使われ始めたのである。
なにしろ、ちょっと角度を変えてみると「こいつ才能があるのに、ミスばかりしてない?」としかみえないのだ。

