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形而上的な理想を掲げつつ、具体論はあくまでも形而下的に
最近の朝日新聞の世論調査が面白かったです。自分を左寄りの考えだと自認している人の多くが自民党、そして高市さんを支持しているという結果。まさに、今や右左の分け方が機能していない証しです。僕自身も、例えば高市政権が進める日本の防衛力強化について、基本的に賛成の立場です。今、世界ではロシアによるウクライナ侵略やイスラエルと軍事組織ハマスの紛争、さらにアメリカ・イラン戦争も続いています。そんな中で、アジアだけが例外であり続ける保証はありません。万一の事態に備えて、日本も相応の軍事力を備えるのは当然だと考えるからです。
ただ、こうした議論になると、すぐに「右か、左か」のイデオロギー論争になってしまいます。こうした区分けは東西冷戦時代には機能したかもしれませんが、今となっては右か左か、保守かリベラルかといった、自分の立ち位置から政策を評価する考え方は意味をなくしていると思います。むしろ、こうしたレッテル貼りをするせいで、建設的な議論が止まってしまうから有害でしかありません。
僕自身、政治家時代に原発再稼働や防衛力強化、さらには核共有の議論に理解を示したら「極右だ!」と批判され、その後、ウクライナの非戦闘員には逃げることを主張し、外国人材の受け入れについては条件付きで推進すべきだと発言したら、今度は「極左だ!」と攻撃されました。僕自身の政治的スタンスに変化はないのに、時と場合で極右や極左と批判される。まあこれは僕が真ん中に立っている証拠だと理解しているところですが(笑)、要するに現代の政治課題に対しては、それくらい「右・左、保守・リベラル」の分類は意味をなくしているんです。
じゃあ、そうなると何を基準に政治課題について思考したらいいのか。
僕が一番重視しているのは、「具体的な生身の国民一人一人の命と権利」です。具体的な生身の国民が安心して暮らすために「具体的な国家という権力機構・組織」が必要で、そして国民を守るために国家という権力機構・組織に軍事力(防衛力)が必要になってくる。常に具体的な国民、権力機構・組織を軸に思考しています。
他方で、日本の国柄、日本の歴史・伝統文化、皇室をいただく国体というものを最も重視する思考があります。
この違いを考えるうえでヒントになるのが「形而上・形而下」という区分けです。「また橋下は小難しいことを……」と言われそうだけど、大丈夫。決して難しくはありません。要するに、頭の中の抽象的な概念・理念で考えるのが「形而上的思考法」、目の前の現実を具体的に考えるのが「形而下的思考法」という区分けが、思考の整理に非常に役に立つのです。
例えば熊本県の自衛隊駐屯地に、長射程ミサイルが配備されました。従来比約5倍の1000キロメートル飛翔できるミサイルは、日本の防衛力を強化する装備としては望ましいものですが、同時に地域住民には敵対国からの攻撃対象になりうるという不安も生じます。事実、アメリカ・イラン戦争では中東各国の米軍基地や生産設備にイランがミサイル攻撃を加えましたが、有事には日本側のミサイル基地が敵対国からの攻撃対象になると考えるのが自然です。
そうした住民の具体的な不安の声に対し、小泉進次郎防衛相や防衛省当局者は「安全保障上の観点」や「日本の抑止力」という言葉を持ち出して理解を求めますが、それはあくまでも形而上的な説明にすぎないですよね。なぜなら「そこに住む具体的な国民・住民の命・生活はどうなるか」「攻撃された場合は具体的にどう守られるか」という形而下の思考が一切ありません。
小泉さんら政治家は本来、地元の人たちに対して「十分な迎撃態勢を整えていますから安心してください」とか、「万一のためにシェルターを整備する計画を実行します」といった、目の前の生身の住民を守る具体的な対策を語るべきだったんです。これが形而下的思考です。
永田町の国会議員、特に保守・右を自称する政治家たちは「国家」「安全保障」「国際秩序」「抑止力」といった形而上的ワードが大好きです。でもそれだけだと、具体的な生身の人々の「命」「日常生活」「避難」「負傷」といった形而下的視点が置き去りにされてしまいます。
そうなると国家は、抽象的なものを守るために具体的な国民の命を犠牲にするという、誤った方向に進みかねません。太平洋戦争時の「国体」を守るために300万人以上の国民の命が犠牲になった国家運営の再来です。
いったん立ち位置を外し形而下的に考えてみる
その点、僕は右でも左でもなく、「形而下」でものを考えます。「防衛力強化が必要」「核共有の議論が必要」と主張するのも、決して僕が強気キャラだからでも極右やタカ派だからでもなく、むしろ逆。僕はとことん臆病だからこそ、日本が攻められたら大切な子供たちの命が奪われるんじゃないか、日常が破壊されるんじゃないかと怖いだけ。だから最低限、自分たちの身を守る「最強の」手段が必要だと考える。
太平洋戦争時には、「国体護持」という形而上的このうえないスローガンが国民の思想・行動を縛りつけました。国体という目に見えない超抽象的概念を守るために、どれだけ多くの尊い命が失われたことか。形而上的な思考に偏ると、具体的な国民のことが忘れ去られ、政治家たちの勇ましさにエンジンがかかりブレーキが利かなくなる。
もちろん、そうした形而上的思考は保守の専売特許ではありません。リベラルの側にも形而上的なスローガンの例はいくらでもあります。例えば、憲法9条を絶対視する考え方。
かつて「非武装中立論」を唱えた日本社会党のリーダーがいました。日本が憲法9条に則り、一切の軍備を持たず、軍事同盟にも属さず中立を保てば誰にも攻撃されないというのですが、そんなの形而上的な超理想、夢物語にすぎません。もし日本が非武装中立化し、そこへ外国などの武装勢力が攻めてきたらどうなりますか。
結局、保守でもリベラルでも、形而上の思考に徹するあまり、具体的な国民の犠牲や苦しみといった形而下の現実を見逃してしまえば、国民に大きな犠牲を強いることになります。国体を護持するために、あるいは非武装中立の理想を追うために、自分の子供たちが犠牲になるとしたら僕は絶対に受け入れられないですね。
では政治家の立場でなく政策を吟味する有権者としてどう考えるべきか。僕は形而上的に考えることが全部悪くて、すべて形而下的に考えるべきだと言っているわけではありません。要はバランスです。
形而上的な思考に寄りすぎると、「自分は保守だ」、あるいは「絶対にリベラルだ」と、自分の立ち位置を定めてしまうことが少なくありません。でも、いったんその立ち位置を外して、形而下的に考えることが大事ではないかと思います。天下国家を語ることが大好きな政治家の威勢のいい主張は聞くだけにして、まずはその政策が自分たちの暮らしや命にどういう影響があるかを考えるべきです。
一方、徹底して形而下的に考えていくと、悪く言えば損得の発想ばかりになり理想が薄れてしまいます。それではいつまで経っても国や地域の公共の利益が達成できません。だからこそ、長期的な形而上的な理想を遠くに掲げながらも、常に形而下的な思考によって、その進路を見つけていく。目標は形而上的に、具体的な進路は形而下的に。そのような思考が、正解のわからない時代において生き抜く力の柱だと僕は思います。


