信長はすでに「大坂城」建設を進めていた

だから、大坂本願寺の跡地は、安土築城の総奉行だった丹羽長秀と、甥の織田信澄に預けられ、すでに新城の築城が進められていた。ところが、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で潰えてしまった。

信長は天下一統をめざす拠点として安土城(滋賀県近江八幡市)を築いた。このため、信長が全国を平定したら日本の事実上の首都は安土になっていた、と思う人は多いようだ。しかし、それは違う。信長が安土城を築きはじめた天正4年(1576)の時点では、大坂は信長のものではなかった。だから安土だったのだ。

多くの戦国大名は生涯にわたって居城を変えなかった。武田信玄は躑躅が崎館(山梨県甲府市)から動かず、上杉謙信は最後まで春日山城(新潟県上越市)が居城だった。一方、信長は自身の勢力拡大にしたがって居城を、清洲(愛知県清須市)→小牧山(同小牧市)→岐阜(岐阜市)→安土と移した。その点からも、次に大坂が準備されていたと考えるのが自然である。

むろん羽柴秀吉は、信長のねらいと大坂の地の利をよく理解していたからこそ、自身が天下をねらう拠点として、信長の意志を継ぐかたちで大坂に築城したのである。強調しておきたいのは、本能寺の変で信長が討たれることがなかったとしても、天下一統の拠点は安土から大坂に移ったはずだ、ということである。

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