戦いの中で生まれた「鉄甲船」

しかも、大坂本願寺自体が、攻めてもびくともしなかった。村上水軍を味方にして大阪湾の制海権を握っていた毛利氏の支援を受け、武器も兵糧も続々と運び込まれた。一方、陸側も信長が目をつけるくらいだから、難攻不落の要害で、攻撃できるとしたら上町台地南端の天王寺口だけだった。

逆にいえば、大坂本願寺としては、天王寺口にだけ注力すれば防御できた。そこに、この戦いが長引いた最大の原因があった。

信長は状況を打開すべく、天正4年(1576)に毛利水軍に戦いを仕かけた。このときは長篠合戦で有効だった鉄砲が水軍相手には無力で、信長の水軍の船は次々に焼き払われ、完敗を喫した。だが、敗北から学んで同じ轍を踏まないのが信長で、天正6年(1578)には鉄板で覆った巨船を7隻も建造し、火矢の攻撃をものともせず毛利水軍を撃破。大坂湾の制海権を握った。

こうして武器や兵糧の補給を絶たれると、さしもの大坂本願寺も干からびることになった。物資は尽き、人心も追い詰められた。そして天正8年(1580)、正親町天皇の指示で公家の庭田重保と勧修寺晴豊が仲介し、信長と顕如のあいだで和睦が締結されたのである。長男の教如は籠城を主張したため父子は決裂したが、8月2日には、大坂本願寺は信長に明け渡された。

顕如如像
顕如如像(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

天下を治める拠点としてふさわしい

それまでに信長と大坂本願寺のあいだでは、2回ほど和睦が結ばれた。元亀3年(1572)には足利義昭の仲介もあって一時的に和睦し、天正元年(1573)末までは両者は戦火を交えていない。天正5年(1576)10月にも正親町天皇の勅名で、一時的に講和が結ばれた。

だが、和睦が長続きしなかったのは、信長が目的を達していなかったからである。目的とはいうまでもなく、大坂の地をわがものにすることで、それはこの地こそが天下を治める拠点にふさわしいと、信長が思っていたからに違いない。

信長公記』には前述のように〈そもそも大坂は、日本一の土地である〉と記されている(原文は「抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり」)。「日本一」と書かれているのは、信長がそう考えていた、ということにほかならない。そうであれば、大坂こそが天下を治める拠点としてふさわしい、と信長が考えていたということである。

数々の大河が縦横に流れ、地形は天然の要塞のようで守りがきわめて堅く、水陸の交通の要所で、すぐ西の海は全国の物資が集まる港町で、経済都市たる堺からも莫大な利益が得られ、京都や奈良を監視するにも好適地である――。政治、軍事、経済のすべてにわたり、これほど都合がいい土地はほかにない。