史料にしっかりと記されている理由

信長がなぜそれほど大坂本願寺にこだわったのか。中世の本願寺は、たんなる宗教勢力ではなかった。大坂本願寺は、堀に囲まれた巨大城郭そのもので、強大な軍事力と経済力をもつ事実上の領主だった。寺内町を形成して支配し、年貢の徴収も行った。

とはいえ浅井や朝倉、または武田や毛利のような広大な領土の支配者ではない。だから信長軍団にとって、倒したところで恩賞としての領土が期待できない、戦い甲斐のない相手だったともいえる。それでも軍団は、信長の命に従って大坂本願寺と必死に戦った。いったいなぜなのか。

信長の事績を知るうえで第一級の史料である太田牛一の『信長公記』には、大坂本願寺に関する記述が非常に多い。それだけ信長がこだわった証しだが、天正8年8月の「大坂退散の事」という記事には、本願寺が信長にとっていかに大事だったのか、以下のように記されている。

〈そもそも大坂は、日本一の土地である。その理由は、奈良・堺・京都に近く、特に鳥羽・淀から大坂の町口まで舟の交通が直結しており、同時に四方が自然の要害となっている。

北は、鴨川・白川・桂川・淀川・宇治川という大河が幾筋にも流れ、また二里、三里の範囲内に中津川・吹田川・江口川・神崎川が流れている。

東南から東北へかけて、尼上ケ岳・立田山・生駒山・飯盛山という遠山の景色を見て、その麓には道明寺川・大和川に新開の運河や立田の谷水が流れ込むという具合で、大坂の城の足元まで三里、四里の間は、大小の河川が広範囲に網目のように流れている。

西は、広々とした海で、日本の各地は無論、唐土・高麗・南蛮の船が出入りする。五畿七道の産物が集まって売買され、その利潤で潤う経済力豊かな港町である〉(中川太古訳)

大阪の3D地図
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安土よりも戦略的に最適地

もうわかったと思うが、信長は大坂という土地にこだわったのだ。だから『信長公記』でも、これほどまでに大坂の地の利が強調されている。

つまり、大坂(この場合は大坂本願寺があり、のちに大坂城が築かれる上町台地)こそが天然の要害の地で、船が行き交う要所でもあり、京都の朝廷にも、奈良の寺院勢力にも、堺の商人たちにもにらみが利き、さらに西国大名を討伐および管轄するための最適地でもあった。

それは戦国の世を終わらせ、天下を一統するために必要な最重要地だった。しかも、『信長公記』にもあるように、足元の堺も含め、経済力が豊かな土地を掌握すれば、なによりも力になる。信長の家臣たちもそれを理解していたから、大坂本願寺との長い戦いを受け入れたのだろう。

実際、長く苦しい戦いだった。事のはじまりは元亀元年(1570)、信長が大坂本願寺に寺地の明け渡しを求めたことだった。これを理不尽な要求だと受け取った本願寺法主の顕如が、信長に対して挙兵したのである。時を同じくして、足利義昭が糸を引く浅井と朝倉、武田信玄、毛利輝元らによる包囲網との戦いを余儀なくされた信長は、存亡の危機を迎えている。だが、天正元年(1573)、信玄の急死で形勢が好転した。

それでも、大坂本願寺だけは信長に屈するどころか、全国の門徒にげきを飛ばしたため、各地で一向一揆が頻発。信長はそれへの対応に追われることになった。