史料にしっかりと記されている理由

信長がなぜそれほど大坂本願寺にこだわったのか。中世の本願寺は、たんなる宗教勢力ではなかった。大坂本願寺は、堀に囲まれた巨大城郭そのもので、強大な軍事力と経済力をもつ事実上の領主だった。寺内町を形成して支配し、年貢の徴収も行った。

とはいえ浅井や朝倉、または武田や毛利のような広大な領土の支配者ではない。だから信長軍団にとって、倒したところで恩賞としての領土が期待できない、戦い甲斐のない相手だったともいえる。それでも軍団は、信長の命に従って大坂本願寺と必死に戦った。いったいなぜなのか。

信長の事績を知るうえで第一級の史料である太田牛一の『信長公記』には、大坂本願寺に関する記述が非常に多い。それだけ信長がこだわった証しだが、天正8年8月の「大坂退散の事」という記事には、本願寺が信長にとっていかに大事だったのか、以下のように記されている。