石田三成による急襲

しかし、最期は唐突にやってきた。徳川家康が率いる上杉攻めに忠興が供奉して東国に向かう最中、家康を糾弾して挙兵した石田三成らは、大坂城下の玉造の細川屋敷にいるガラシャを人質に取ろうとした。ガラシャのねらい撃ちだった。三成の襲撃事件に参加し、三成の娘婿(福原長堯)から奪われた領地を加増され、家康に人質を出し……と、三成側から恨まれる要素しかないのが、このときの忠興だったからだ。

そして忠興は、万が一の事態を想定し、自分が不在のあいだに妻の名誉が冒されたら、まず妻を殺し、追ってみな死ぬように――という指示を、留守居にしていたのである。

キリスト教では自殺は厳禁なので、ガラシャは悩んだようだ。宣教師のオルガンティーノにも再三質問し、最後には納得がいく答えが得られたという。死が回避できない場合の名誉の死は、許してもらったのだろう。

だが、それにしても忠興の指示がきつい。たとえば忠興と同様に上杉攻めに参加した黒田長政は、万が一のときは妻を本国に逃がすように指示していた。

遺言は「側室を正室にしないこと」

では、黒田長政の妻とガラシャとの違いはなにか。それは明白である。長政の妻は家康の養女なのに対し、ガラシャは「謀反人の娘」である。山田貴司氏は〈忠興はガラシャが「謀反人の娘」だと辱められる可能性を、徹底的に潰したかったのである〉と書くが(『ガラシャ』平凡社)、的を射た論だ。

忠興は「謀反人の娘」を外に出すことを嫌って、徹底的に幽閉したのだろう。その延長で人質に取られることも、過剰なまでに嫌ったのではないだろうか。結局、ガラシャは父の謀反による負の十字架を、生涯にわたって背負い続けざるをえなかったことになる。

慶長5年(1600)7月17日夕刻、三成方から催促の使いがやってきて、玉造の屋敷は囲まれた。侍女たちには暇を出したが、とくに霜とおくという2人の侍女には、遺言を伝えた。神に祈りを捧げ、イエスとマリアの名を口に出し、小笠原少斎の介錯で果てた。享年38。その後、留守居たちは火をつけ、少斎らも腹を切った。

細川ガラシャの最期を描いた挿絵(ウィリアム・ダルトン著『ウィリアム・アダムス 日本における最初のイギリス人』1866年刊、国際日本文化研究センター所蔵)
細川ガラシャの最期を描いた挿絵(ウィリアム・ダルトン著『ウィリアム・アダムス 日本における最初のイギリス人』1866年刊、国際日本文化研究センター所蔵)画像提供=国際日本文化研究センター

むごい一生だが、「謀反人の娘」のレッテルをいくら貼られても、強いプライドを捨てない女性だった。霜とおくに伝えた遺言のなかに、「側室の藤を正室にしないこと」という項があるのは、彼女のプライドを象徴している。そのことも、ガラシャが「美女だった」という伝説につながったのかもしれない。

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