ガラシャの意味

意外にも、ガラシャがキリスト教の話を最初に聞いたのは、忠興からだという。忠興はキリシタン大名の高山右近の話をしたのだ。もっとも、興味をもったところで、忠興の監視のもと教会に行くことなど不可能だが、天正15年(1587)2月、夫は九州征伐に出兵して長期不在となった。

またとない好機と考えたガラシャは、侍女たちに教会に行きたい旨を伝え、侍女たちが数人で彼女を囲んで姿を隠し、教会まで連れていったのだという。禅宗の教養が豊富だったガラシャはさまざまな角度から質問しては議論し、ベテランの日本人修道士である高井コスメは、彼女の明晰な判断力に驚嘆している。

屋敷の者が迎えに来てしまって短時間の滞在となり、これがガラシャには最初で最後の教会訪問となった。しかし、キリスト教への思いは日増しに強まり、自分は教会に行けないので、侍女たちに行かせた。信頼の厚い侍女の清原いとに教会で説教を受けさせ、いとの帰宅後、自分に伝えさせた。結局、いとは受洗して清原マリアとなった。ほかの侍女も次々と教会に送り、洗礼を受けた侍女の数は16人におよんだという。

そうこうするうちに、同年6月19日、羽柴秀吉が伴天連追放令を発布した。ガラシャはこれを悲しみ、西国に赴いて殉教する決意まで固め、受洗を急いだ。しかし、教会に行くことはできないので、清原マリアが代理で洗礼をほどこした。洗礼名のガラシャはラテン語で恩寵(神の恵み)を表す。

大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂と細川ガラシア像
大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂と細川ガラシア像(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

怒り狂って乳母の鼻と耳を削いだ夫

とはいえ、ガラシャは九州から戻った忠興に、洗礼を受けたことを伝えなかった。知らせたのは8年後の文禄4年(1595)だという。秀吉が伴天連追放令を出したのは、九州の箱崎(福岡市東区)。近くにいた忠興はキリスト教を憎悪するようになり、ガラシャは自分と周囲を守るためには、秘密にするしかなかった。実際、忠興は受洗したとわかった乳母の鼻と耳をそぎ、ほかにも受洗が発覚した侍女は、髪を切ったり追い出したりした。

そんな状況だから、ガラシャは離婚を決意する。忠興が何人もの側室をもうけるようになったのも嫌だったようだ。しかし、離婚は教会に容認されず、教会に導かれて、困難な状況に耐える道を選んでいる。

だが、悪いことばかりではない。味土野に幽閉中に生まれたと思われる次男の興秋が洗礼を受け、忠興の弟の興元も受洗。しかも、興元は興秋を養子にし、その後、興秋がすでに受洗していると知ってよろこんだという逸話が伝わる。次女の多羅たらも受洗したようで、それらはガラシャにとってうれしいことだったはずだ。

そんな状況があって、ガラシャの話を聞く機会、さらには秀吉の姿勢の軟化もあって、忠興もキリスト教に理解を示すようになってきた。夫婦関係も本能寺の変の前を除くと、一番マシな状況になったのではないだろうか。