ライバル薩摩藩の大久保利通にも学ぶ

こうして高杉と伊藤は、「力士隊」をあわせた70から80人で決起し、兵力が少ないので奇襲攻撃を仕掛け、これが功を奏して下関の占領に成功しました。

以後、伊藤は高杉から全幅の信頼を得ます。しかし高杉には労咳ろうがい(肺結核)の持病があり、将来まで面倒を見てもらえる保証はありませんでした。

そこで伊藤は、禁門の変以来、姿を隠していた桂小五郎を探し出し、再び師とも上司とも敬います。薩長が中心となって誕生した明治新政府において、長州のトップは桂小五郎――すでに木戸孝允に改名していた――でした。

木戸のおかげで、伊藤は“政治”を学びつつ、新政府内で順調に出世していきます。

ところが、幕末の苦労で疲弊していた木戸は、精神を病むようになり、幕府は倒したものの、現実の政治を思うように進めることができません。困難が持ち上がるたびに、抗議の辞表を出す木戸を見て伊藤は、もうこの人には学べない、と感じ始めます。

そのため木戸と行動を共にすることを少しずつ、避けるようになりました。

もともと木戸は几帳面な性格であり、真面目で、物事の本質にこだわる性質だったため、多くの部下がついていきたい、と思う上司ではありませんでした。

そこで次に伊藤が選んだ、新たな上司にして師匠が、薩摩藩士の大久保利通だったのです。これは、本来ならあり得ない選択でした。

「口数の多い男だけど、使えるかもしれない」

当時の薩長は、共に討幕を果たした間柄とはいえ、日本の主導権を争う、藩閥のライバル関係です。しのぎを削り合う、相手陣営のトップに師弟の礼をとるというのは、きわめて難しいことでもありました。

しかし、伊藤は大久保にリーダーの資質を見い出し、学びたい、という思いを抱きます。木戸の場合、なんでも自分で仕切りたがります。伊藤がアイデアを出しても、木戸は「いや、そこはこうしろ」と最終的に、自分の意見で修正をしてしまいます。

一方、木戸の政敵の大久保利通は、細部を部下に任せることができる人物でした。

部下の提案を丸のみして、「よし、やってみろ」と一任してくれるのです。

とはいえ伊藤は、大久保が簡単に自分のことを買ってくれない、と考えていました。

口数の多い伊藤のことを、寡黙な大久保は好んでいないだろうと思ってもいました。

けれども、そんな伊藤に機会チャンスが巡ってきました。明治新政府の首脳陣を欧米に派遣した岩倉遣欧使節団に、大久保と共に伊藤も選ばれたのです。

岩倉使節団の主要メンバーの写真。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
岩倉使節団の主要メンバーの写真。左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通(写真=From the arabic Wikipedia/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

長い船旅の中で伊藤は大久保に接近し、二人で日本へ戻るという、出発前にはなかった突発的な出来事もあって、往復する間、じっくりと話し合う時間を持つことができたのです。

その結果、大久保は「口数の多い男だけど、伊藤は使えるかもしれない」と理解を示すようになりました。

伊藤はこうして、本来は政敵であるはずの大久保に認められていったのです。

使節団が日本へ帰国したときには、伊藤は大久保の部下、師に対する弟子となっていました。