人を観察して的確に対処し、情報を集める

松下村塾での学びは、松陰の江戸送還によって1年ほどでしかありませんでしたが、ここで桂小五郎(のち木戸孝允)や高杉晋作といった“雲の上”の知己ちきを得たことは、その後の伊藤の人生に決定的な影響を与えました。

とくに桂小五郎は、伊藤を手附てつけ(役付武士の雑用係)として身近に置いてくれました。

俊輔しゅんすけと呼ばれた時代の伊藤には、突出した才能こそありませんでしたが、ここぞという好機を逃さず、迷いなく体を張れる度胸がありました(それしかなかった、ともいえますが)。

人物として豊臣秀吉の木下藤吉郎時代を彷彿させる(ありありと思い浮かぶ)ものがあります。さらに松陰の見立て通り、人を観察して的確に対処し、情報を集める周旋しゅうせん能力にも、伊藤はけていました。

桂の下にいた時期、幕末の長州藩には各地から勤王の志士が集まってきました。多忙な桂は、得体の知れない人物も含めて全員と面会するわけにはいきません。

そこで自身の家来であり、藩主直属ではないために、藩を代表する立場にはならない伊藤に、彼らの相手をさせたのです。

伊藤は桂から渡された金で志士たちに酒を振る舞い、女郎屋じょろうやへ連れて行っては本音で語り合いました。桂にとっては無価値に見える話の中にも、伊藤にとっては有益な情報が含まれていることもあったようです。

こうして集められた情報の量は、当時においては桂を凌ぐものであったと思われます。

高杉晋作と心中する覚悟だった

桂小五郎に重用される一方で、伊藤は高杉晋作ともウマが合いました。

藩の名家の息子である高杉は金回りがよく、常識にとらわれない性格であったため、身分の違う伊藤にとっても、つき合いやすかったのでしょう。

22歳のときには、高杉と共に江戸の御殿山ごてんやま(現・東京都品川区北品川)にあったイギリス公使館を焼き討ちしたほどです。また、高杉が奇兵隊きへいたいを結成した際には、伊藤は「力士隊りきしたい」を任されています。

品川区御殿山
品川区御殿山(写真=AMANO Jun-ichi/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

もっとも、幕末の長州藩は当初から、倒幕の方針で一枚岩いちまいいわになっていたわけではありませんでした。禁門の変で敗れて京都を追われ、第一次長州征伐では戦わずして降参したとき、さすがに倒幕勢力は鳴りを潜めました。幕府の威光を恐れて、幕閣に従おうという守旧派が藩内勢力を盛り返してきたのです。

このままでは、守旧派に藩政の主導権を握られてしまうと考えた高杉は、武力で盛り返させようとします。

そこで高杉は、当時、奇兵隊を掌握していた山縣有朋らにげきを飛ばしました。

日本中が再び徳川幕府の支配下に戻りつつあり、日本国内で倒幕の志を持っているのはわれら長州人だけであること、そして今こそわれらが決起して、武力で藩を動かすときが来たことを説き、「諸君、自分と一緒に戦ってもらいたい」と訴えたのです。

ところが山縣は、今のような状況で決起するのは無謀であり、集めうる兵数では正規軍に勝てるわけがない、時期を待つべきです、と高杉の決起に反対します。大半の幹部も、山縣と同意見でした。

周囲の反応に落胆する高杉に対し、ただ一人、「自分は高杉さんについていきます」と叫んだのが、伊藤俊輔=のちの博文だったのです。