会社を辞め、お汁粉屋を始める計画

「もうおしまいだ」と医者に行くと診断は肺尖カタル。結核ではなかったが予断を許さない。医者からは「実家に帰って養生しろ」といわれたが、戻る実家なんてない。

当時は、社会保険もない時代だ。働かないと食えない。でも、働けない。3日行っては1日休み、1週間行っては2日休み、騙し騙しの状態で勤務を続ける。1年くらい経つと小康を得たが全快には至らない。

「こんな状態ではいつまでも会社勤めを続けられない」と考えるようになる。いつ、また体調が悪化するかわからない。会社に勤めないで自分で事業をすれば、自分のペースで働ける――いや、もっと正直にいえば好きなときに休める。

22歳のとき独立を決意する。幸之助には壮大なビジネスプランがあったわけではない。会社にいても未来がない、それならば独立しよう。

だから、最初はお汁粉屋を始めようとしていた。単にお汁粉が好きで、「一日中お汁粉を作って、疲れたら店を閉めて、気が向いたら開けるくらいの商売がいいな」とでも思っていたのだろう。

ガツガツ働く気はさらさらなかった。結果的に妻がお汁粉屋の開業を嫌がったので、24歳のときに電気器具の会社を立ち上げた。これが後のパナソニックになる。

あくまでも「体に無理せず、楽して稼ぎたい」が起業の動機であり、パナソニックの原点は「いかに効率よくサボるか」だった。

お汁粉
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サボり思考が革新的な経営システムを生んだ

創業からわずか数年後に幸之助は再び体調を大きく崩す。医者からは安静を命じられる。普通の経営者なら、ここで事業を諦めるか、規模を縮小するだろう。

ところが、幸之助は違った。「体が動かんのやったら、動かんでも儲かる仕組みを作ったらええ」。どこまでもポジティブだ。

この究極のサボり思考が、日本企業史上に残る革新的な経営システムを生み出す。事業部制の導入だ。

1933(昭和8)年、幸之助は事業部制を導入する。ラジオ部門、電池部門、配線器具部門など各事業部に大幅な権限を委譲し、それぞれが独立採算で運営する。

各事業部長は、まるで一つの会社の社長のように、仕入れから販売、人事まで幅広い権限を持つ。

幸之助が病床にあっても、いや、正確にいえば「今日は調子いいけど、あえて寝とこ」という日でも、各事業部長が自律的に判断し、事業を推進できる。「任せて任せず」――これが幸之助の経営哲学だった。仕事は部下に任せるが、完全に放任するのではなく、要所要所で確認し、指導する。体が弱くて常に現場にいられないからこそ生まれた、絶妙な管理手法だった。