秀長との間に子供はいたのか?
秀長の後継となったのは、養子の羽柴秀保でした。ちなみに秀保は秀吉の姉・日秀尼(とも)の子です。秀長の死後、慈雲院は「大かた様」(大方様)などと呼ばれ、養子であり当主の秀保の後見を務めていたと思われます。
さて天正19年(1591)2月、秀吉の逆鱗に触れた千利休は切腹して果てます。利休が京都大徳寺の山門に自身の木像を置いたことが秀吉の怒りをかった要因とされますが、その科は大徳寺の長老3人にも及ばんとしました。彼らは磔刑に処されるところでしたが、それを救ったのが、大政所(秀吉の母)と慈雲院だったのです。大政所と慈雲院は秀吉に大徳寺長老衆の助命嘆願を行い、処刑を免れさせたのでした。法名に「慈」(いつくしむ)という文字があるように、彼女(慈雲院)は情け深い女性だったと推測されます。
側室のような女性もいたが…
秀長には別妻がおりました。それが「摂取院光秀」という女性です。残念ながら彼女の実名も分かっていません。摂取院は秋篠家の出身と考えられています。秋篠氏は、筒井順慶(戦国時代の大和国の大名。信長に仕え、郡山城を与られた。山崎の戦いでは、明智光秀ではなく、秀吉方に加勢)に仕える家臣で、武士でした。摂取院の父を伝左衛門とする説もありますが、これには異説もあります(伝左衛門は摂取院の父ではなく、慈雲院の父との説です)。
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