「300人もの若い娘を囲っていた」
さらに秀吉は戦国時代に来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』においても
「齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた」
「彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した」
などと記されています。
フロイスのこの記述が本当か否かは日本側の史料がなく検証不可能です。また秀吉は伴天連追放令を発布(1587年)していることから、フロイスは秀吉をこき下ろしたとも考えられます。要注意の内容ではあるのですが、それはともかく、秀吉が「女狂い」(女好き)であったことは自らも認めているように、ある程度は本当だったのではないでしょうか。
秀長のスキャンダルは記録にない
では、その弟の秀長はどうだったのでしょう。秀長についてはこうした方面の史料が残っていませんので、残念ながら詳細は分かりません。しかし秀長が兄・秀吉のように「女狂い」であったならば、少しくらいはそうした内容の史料が(後世の史料であったとしても)残っていても良いはずです。が、そうしたものは管見の限りありませんので、秀長は兄のように「女狂い」ではなかったと思われます。
「豊臣兄弟」の性格についても、史料を見ていくと、秀吉は他人に対して峻厳。しかし秀長は他人に対して温かみをもって接しているように思います。大坂城を訪れた豊後国の大友宗麟の手をとり「家中では内向きのことは千利休が、表向きのことは私が承っています。何事もご相談ください」と語ったことなどはその証しと言えるでしょう。
フロイス『日本史』にも秀長は丁寧な人物として描かれています。そうした秀長の性格を考えても(彼に複数の側室がいたとしても)兄・秀吉のような「女狂い」だったとは筆者には思えないのです。
それは、正妻「慈雲院」が秀長の死後も、跡継ぎを後見し家を守ろうとしたことからも、うかがえるのではないでしょうか。
参考文献
渡辺世祐『豊太閤の私的生活』(創元社、1939年)、桑田忠親『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)、桑田忠親『桑田忠親著作集』第5巻(秋田書店、1979年)、新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社、1996年)、藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)、渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)、柴裕之編著『豊臣秀長』(戎光祥出版、2024年)、和田裕弘『豊臣秀長』(中央公論新社、2025年)、黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)、濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)


