枕は彫刻を施した黄金色

キリシタンとして知られた豊後(一部を除く大分県)の大名、大友義鎮(宗麟)も、天正14年(1586)に秀吉みずからの案内で大坂城内を歩き、『大坂城内見聞録』に書き遺している。そこにはおおむね以下のように書かれている。

「その大きさや普請に集まった人の多さから『三国無双の城』であり、案内された三畳ほどの茶室は、室内の茶器もふくめてすべてが黄金でできていた。秀吉は宗麟に好意を寄せ、弟の秀長とともに天守の地下から最上階まで案内。最上階では大坂平野を見渡しながら雑談し、気分をよくした秀吉は、自分の寝室まで案内した。そこにはベッドが置かれ、布団の色は深紅で、枕は彫刻を施した黄金色だった……」

秀吉は赤い布団が敷かれたベッドに寝ていたのだ。

周知のように豊臣大坂城は大坂夏の陣で灰燼に帰したが、じつは唯一、残っている建物がある。先に見た『大坂城図屏風』は天守の左に、屋根のついた廊下橋が描かれている。これは秀吉の晩年に建てられた極楽橋で、2006年にオーストリアのエッゲンベルク城で見つかった『豊臣期大坂図屏風』にも描写されている。

豊臣期大阪図屏風(オーストリア・エッゲンベルク城所蔵)部分。大阪城極楽橋
豊臣期大阪図屏風(オーストリア・エッゲンベルク城所蔵)部分。大阪城極楽橋(写真=ヨアネウム/PD-Art (PD-Japan)/Wikimedia Commons

この橋は秀吉の死後、慶長5年(1600)に秀吉の霊廟として建てられた豊国廟に移築され(『義演准后日記』)、その2年後、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島にふたたび移された(『舜旧記』)。つまり、豊臣大坂城が破壊される前に運び出され、竹生島に現存しているのだ。

琵琶湖で見られる「往時の大坂城」

国宝に指定されている宝厳寺の唐門が極楽橋の入口と考えられ、重要文化財の観音堂、同じく重文である渡廊、国宝の都久夫須麻神社本殿の計4棟が連なる。これら4棟は調査の結果、かつて大坂城では一体の建物だったと考えられている。

修復された宝厳寺唐門
筆者撮影
修復された宝厳寺唐門

4棟は平成25年(2013)から7年かけて滋賀県による保存修理が行われ、漆塗りなどは全面的に塗り直され、彩色や彫刻の欠落も補われた。その際、レーザー測定で顔料や模様を分析し、往時の色彩を忠実に表現。黒漆に金のほか赤や青を鮮やかに施した装飾がよみがえった。

修復されたた唐門の前に立つと、絢爛たる輝かしさの前に言葉もない。「極楽とはこのことか」と往時の人たちは感じたことだろう。また、都久夫須麻神社本殿の身舎内陣は、狩野派の黄金の襖絵や極彩色の彫刻で飾られ、柱や長押は黒漆に高台寺蒔絵が施され、比較するものがないほどの豪奢で眩い。二条城二の丸御殿の10倍は豪華だ、日光東照宮の陽明門のような室内だ、といえば少しは伝わるだろうか。

天守はもちろん、多くの建物が同様の豪華さで飾られていたら、もはや眩暈がしそうだが、それが豊臣大坂城だったのである。

【関連記事】
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲
サルでもハゲネズミでもない…外見にコンプレックスを抱える秀吉が信長に付けられた「もう一つの呼び名」
石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
息子を「種馬」にして26男27女を作らせる…NHK大河で生田斗真が演じる一橋治済が起こした「徳川家乗っ取り計画」【2025年5月BEST】