宣教師「我らの言葉でいえば金ピカ」
「もっとも主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同所にいた。八層から成り、最上層にはそれを外から取り囲む回廊がある。また濠、城壁、堡塁、それらの入口、門、鉄を張った窓門があり、それらの門は高々と聳えていた。(中略)とりわけ天守閣は遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」
「別の場所にある一つの台地には、多くの立派で美しい部屋が建てられているが、それらは我らの言葉でいえば金ピカであり、下方に展開する多くの緑の田畑や愛らしい河川をそこから一望に収め得る。これらの夥しい部屋は、種々様々の絵画で飾られている」
「これらの建物はすべて木材が用いられ、壁は、支柱の間に幾本もの太い竹を仕組み、その上に粘土をかぶせ、さらにその上に白く漆喰を塗る。それは内側から外側からも施されるので、外見においてはあたかもヨーロッパの建築のようであり、我らの目になんらの違和感を覚えさせない」
「屋根にはそれぞれ正面部があり、上部には怪人面が付いた黄金の鬼瓦が置かれ、それはまた角の部分にもあった。そしてそれらの瓦は皆黄金色で、建物にいっそうすばらしい光彩を添えていた」
秀吉の強烈なコンプレックス
フロイスは大坂城が「金ピカ」である理由について、こう書き添えている。
「この(羽柴)筑前殿は血統から見ればたいして高貴の出ではなく、家系からも、およそ天下の支配なり統治権を掌握して日本の君主になり得る身には程遠いものがあったので、今やこうした高位に昇り、幸運の座に就き、そして日本の歴史上未曽有の著名にして傑出した王侯武将と言われている(織田)信長の後継者になるに及び、可能なあらゆる方法によって自らを飾り、引き立たせようと全力を傾けた」
大坂城を描いた最古の絵『大坂城図屏風』(大阪城天守閣蔵)には、天守が細部まで描写されている。天守は本丸の北東隅、すなわち現在の「大阪城天守閣」の北東方向に建っていた。フロイスは引用したように「八層」と書いており、内部は地上6階、地下2階だったと考えられる。
外壁は軒下だけ漆喰で、その下の腰板は黒漆が塗られ、そこには朝廷から使用が許された菊と桐の大きな紋が、おそらく木彫に金箔を施されたうえで張りつけられている。また、瓦が「皆黄金色」だったというフロイスの記述を裏づけるように、瓦はかなりの部分が黄金で装飾されているようだ。
黒い壁面に黄金の装飾がふんだんに施され、屋根も黄金色に輝く――。私たちが見慣れた城とはかなり異なるが、それが秀吉流だった。フロイスは秀吉が「可能なあらゆる方法によって自らを飾り、引き立たせようと全力を傾けた」と書くが、実際、出自で劣る秀吉は自身の居城を、信長の安土城もおよばないほど金ピカに飾り立て、権威を示したのである。
