現在の石垣は徳川時代のもの

現在の石垣が徳川時代に積まれたとわかったのは、昭和34年(1959)に大阪市、同市教育委員会、大阪読売新聞社が行った総合学術調査でのこと。石垣に、江戸時代に工事を負担した大名の刻印が数多く見つかったのだ。そのとき本丸の天守台から南へ45メートルの地点で調査を行うと、地下7.3メートルに古い石垣が見つかった。

秀吉の築城前にあった本願寺の石垣の可能性も考えられたが、翌年、徳川幕府の京都大工頭だった中井家から、豊臣時代の「大坂城本丸図」が見つかり、地下の石垣がその図上に示された本丸中ノ段の石垣の位置と一致した。

昭和59年(1984)にも、現在の「天守閣」南東の地下1メートルに、高さ6メートルの石垣が見つかった。中井家の「本丸図」では、豊臣時代の本丸は詰ノ丸、中ノ段、下ノ段の3段構造。検討の結果、この石垣は奥御殿や天守が建っていた最上段「詰ノ丸」の南東隅のもので、また、この石垣が立ち上がる平面と、昭和34年発見の石垣の上端が同じ高さだったため、後者は「中ノ段」の石垣と特定された。

こうして、豊臣大坂城が地中深く埋められたという史実が鮮明になったのである。

信長の安土城を超えようとした

大坂城豊臣石垣館で見られる石垣は、城郭に石垣が大規模に積まれるようになって間もないころのもので、地上で見られる徳川時代の石垣とくらべると素朴に見える。石垣の採取法も確立されていなかったので、手当たり次第に石が集められ、隅角部には古墳時代の石棺の一部や古代寺院の礎石も転用されている。

石垣や堀の規模も違う。豊臣の痕跡を消し、徳川の圧倒的な力を示すため、徳川幕府は豊臣時代よりずっと広く深い堀を造成し、地面を掘り下げた土で、場所によっては10メートル以上の盛土をし、高い箇所では豊臣時代の2倍以上の30メートルもの高石垣で固めた。つまり石垣や堀の規模では、豊臣時代をはるかに超えるスケールの城を築き上げた。

しかし、豊臣大坂城が徳川大坂城より劣っていたのではない。むしろ、豪華絢爛という点では、徳川大坂城は豊臣大坂城の敵ではなかった。

大坂夏の陣図屏風右隻(大阪城天守閣所蔵)に描かれている天正期大坂城天守
大坂夏の陣図屏風右隻(大阪城天守閣所蔵)に描かれている天正期大坂城天守(写真=National Geographic/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

簡単にいうと、徳川大坂城は天守も櫓も門も白漆喰を塗り籠めた「白い城」だったが、豊臣大坂城は壁面に黒漆が塗られた「黒い城」で、そこに金の装飾が施されていた。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは『日本史』に、秀吉が大坂築城で「信長が自らの豪壮偉大さを大いに発揮しようとした安土山の全建築と比べものにならぬほど凌駕するものにしようと企てた」(松田毅一、川崎桃太訳、以下同)と書き、その詳細を記している。少し引用したい。