天才軍師の脳内での計算は?
竹中家はなぜ、菩提山城をこのような構造にしたのか。その真意は、天才軍師・竹中半兵衛の脳内に。常人には窺い知れない、深謀遠慮がそこに隠されているのかもしれない。
このように軍師として名高い竹中半兵衛らしく、戦への備えは充分。防御に工夫を凝らした菩提山城ではあるが、竹中氏の城となってからは、実戦の舞台にならなかったようである。
半兵衛が36歳の若さで死去し、主君・秀吉も天下人となった後に亡くなり、息子の重門の時代、1600(慶長5)年、竹中家のお膝元、菩提山城の麓に広がる関ヶ原で天下分け目の大合戦が起こった。重門は秀吉の小田原城攻めや朝鮮出兵にも従軍した立場で、開戦前夜は石田三成らが率いる西軍に属した。
息子は西軍を裏切り、家康に城を献上
重門は犬山城に籠城していたが、東軍によって岐阜城(稲葉山城)が落ちると、東軍側へ寝返った。居城の菩提山城は家康に献上し、合戦当日、自分は関ヶ原北部の丸山に黒田長政と共に布陣した。そして、東軍の“のろし”をあげ、笹尾山に布陣する石田三成を攻めたという。
東軍が勝ち、重門は家康の命で戦死者の首塚を築いた。西軍の大将であった小西行長を捕らえるという功績もあり、大坂冬の陣、夏の陣でも徳川方として参戦。その甲斐あって竹中家は、徳川の世で旗本となり幕末まで存続したのだ。
太平の世に山城は不要となったのか、重門は菩提山城を降り、その下に今も残る竹中氏陣屋(図表1②岐阜県不破郡垂井町岩手619-2)を設けた。そこには現在、父・竹中半兵衛の銅像が建っている。



