熱さと勢いが人の胸をゆさぶる

ときに表現が過剰となるが、そんなことはおかまいなしに、いやむしろその表現上の混沌こそ極夜性そのものだという考えのもと一気に書きあげた。

この書くことへの熱とスピード感、そして言葉の過剰なまでの湧出ぶり、これこそ若い肉体が特権的にもつ表現上における勢いだ。勢いこそ多くの人の胸をゆさぶり、感情を高ぶらせる力であり、作品をつくりあげるうえで、深みや円熟、巧拙こうせつとは全然ちがう要素になりうるのである。

角幡唯介『43歳頂点論』(新潮新書)
角幡唯介『43歳頂点論』(新潮新書)

いまの自分から見ると当時の私は極地旅行家としてはまだまだ未熟で、思考の深度も浅かった。いま極夜を探検したらもっとスマートに行動できるだろうし、本の質もあがる気がするが、かりにそれをやっても『極夜行』ほど人の胸に突き刺さる作品にはならないと思う。

あのときの私は、自分の行動や世界、思考、つまり私という人間のすべてを本で表現しうると考えていたし、『極夜行』を読めば読者は私の探検をほぼ追体験できると本気で思っていた。

だがいまはそんなバカなことは思わない。『裸の大地』は『極夜行』より内容は深いと評価しているけれど、これを読んだところで犬橇単独狩猟漂泊の旅を読者は追体験できるわけがないとも思っている。

このような認識の変化にも、たぶん私自身の生き物としての勢いが落ちていることが背景にある。

最高の作品が人生の頂上だとするならば

あとは経験がもたらす弊害もある。行為の質が大きく、深くなりすぎると、どうしても感覚的な世界に入りこみ、論理的な散文形式では表現しうる言葉が見つからなくなるのだ。

これを文章で表現するには詩か神話のような形式しかないのだろうが、自分にはその能力はない、と私はいま表現に対してどこかめた目をもっている。表現欲求が内的エネルギーの湧出であるなら、この冷静さは、私自身の勢いの低下とどこか関係があるにちがいない。

『極夜行』を執筆したのはおもに41歳で、出版は42歳。最高の作品が人生の頂上だとするなら、私のそれは42歳だったことになる。ほぼ43歳といってさしつかえないだろう。

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