バブル崩壊で「価格交渉力」を失った

今治のタオル産業の歴史を紐解くと、1980年代半ばから90年代半ばまでの約10年間は“黄金の10年”と呼ばれる時代だった。年間生産量は5万トン前後で推移し、国内外の有名ブランドのOEM生産で潤っていた。

「あの頃は『高く売れ、高く売れ』だったんです」と田中氏は回想する。店頭からは「あれもつけろ、これもつけろ。箱も豪華にしろ、刺繍も入れろ」と、とにかく値段を上げるための要求が続いた。バブル景気に向かう日本経済の勢いそのものだった。

しかし、バブル崩壊後、状況は一変する。不況に伴うデフレ経済の波に加えて、海外製の安いタオルが大量に輸入されるようになり、価格競争は激しさを増していった。中間卸や小売店が価格の主導権を握り、メーカー側は価格交渉力を完全に失った。

「いったんデフレになると、『あれも抜け、これも抜け』『安くしろ、もっと安くしろ』の連続でした。十数年のうちに足し算と引き算を一気に見た感じです」

2000年代に入っても歯止めはかからず、値下げ要求はエスカレートしていく。消費者から見た値段はほぼ変わらないのに、タオルの品質はどんどん粗悪になっていく。まさに自分で自分の首を絞める行為だった。結果、今治のタオル産業は1991年をピークに、2009年までの18年間、生産量が下がり続けた。

すべての人を不幸にした安売り

安売りは、今治のタオル作りに関わるすべての人を不幸にした。

メーカーは利益が圧迫され、外注の加工業者にも値下げを要請せざるを得なくなった。従業員の賃金も上げられない。品質の高いタオルを作りたいという職人たちのプライドは傷つけられた。

「(1966年に)昭和天皇皇后両陛下もご視察された工場で作った田中のタオルが、こんなことでいいのか」

1932年創業の田中産業には、そのような伝統とプライドがあった。しかし、生き残るためには、タオルの質を落としてでも価格を下げざるを得なかった。作りたくないものを作って、それでも売り上げは伸びず、給料も上がらない。現場の士気は下がる一方だった。

かたや値下げ圧力をかけていた百貨店も収益が伸び悩み、最終的には消費者が手にするタオルの品質も下がっていった。

今治タオル工業組合の田中良史理事長
筆者撮影
今治タオル工業組合の田中良史理事長

「あれは誰がいい目をしたんだろう、と今でも思います。誰も得をしていなかった。全員が負のスパイラルに巻き込まれていたんです」と田中氏は吐露する。

安いことはいいことだ――。デフレ経済の真っ只中、そんな風潮が日本全体を覆っていた。商品の質や中身を見比べることなく、ただ安い方を選ぶ。牛丼チェーンが競い合うように価格を下げた「牛丼戦争」はその象徴だったが、実は日本のタオル業界もそうした煽りをもろに受けていた。

今治のタオル産業がどん底からはい上がるためには、もはや抜本的な戦略転換が不可欠だったのだ。