※本稿は、青山誠『小泉八雲とその妻セツ 古き良き「日本の面影」を世界に届けた夫婦の物語』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
ニューオリンズの新聞社で文芸部長に出世
新聞社のシンシナティ・インクワイアラー社を解雇されたハーンだが、ライバルの他紙からすぐ誘いの声をかけられ再就職した。しかし、周囲の反対を押し切って結婚したアリシアとの関係はすぐに冷え込んでしまう。人種差別に反発して勢いで結婚したものの……お互いの価値観が違い過ぎて諍いが絶えない。とうとう彼女は家を出て行き、ハーンも後を追わずに離婚が成立した。1877年のことである。それもあってシンナティに嫌気がさしていたのだろう、心機一転をはかってニューオリンズへ引っ越した。
デイリー・シティ・アイテム紙で新聞編集に携わり自身も多くの記事を執筆した。独特な文章がニューオリンズでも評判になる。31歳になった1881年にはニューオリンズの新聞界が再編されて、数社が合併し南部でも有数の発行部数を誇るタイムズ・デモクラット社が誕生し、ハーンはそこの文芸部長として迎えられた。大出世である。
ハーンが日本行きを決めた意外な理由
ハーンは神学校時代にフランス語を学び、学校中退後はしばらくフランスに住んだことがある。フランス語もそれなりに理解できたので、フランス文学の翻訳や書評記事なども手がけるようになった。また、非欧米圏の異文化に対する興味も深まり、インドや中東、ポリネシアなどの神話や伝説をテーマにした新聞連載を開始し、1884年にはその記事をまとめた『Stray Leaves from Strange Literature(異文学遺聞)』と題する本を出版。作家デビューも果たしている。
ニューオリンズはアフリカ系やクレオールが多く住む街で、ジャズなど彼らの音楽や文化に触れる機会が多い。また、地理的に近いカリブ海の島々に点在する民族たちの文化も入ってくる。ハーンは旺盛な好奇心を発揮して熱心な取材活動をおこない、それらに関する多くの記事を執筆した。『クレオールの料理』などの著書も次々に出版されるようになる。
1887年には作家活動に専念するため新聞社を退社。カリブ海に浮かぶ西インド諸島のマルティニーク島に移住し、古い生活伝承や民話などを採集しながら未開の島に2年間も住みつづけた。
このマルティニーク島での2年の体験を綴った記事を執筆し、それをハーパー社に送稿したことで同社とのつき合いが深まり、特派員として日本へ行くことになるのだが。さて、それではハーンはいつの頃から日本に興味を持つようになったのか。

