突如始まったゴールドラッシュ

ただ搾り取るだけでなく、きちんと報いているところが素晴らしいようにもみえるが、3年後からは、多賀城以北の郡では、調庸として、公民の男子4人について1両の金を納めることが義務づけられた。

現在、砂金取りはかなりマニアックな趣味に位置づけられるが、8世紀中盤以降の小田郡では、農閑期など家族総出で砂金取りに励んでいたことだろう。趣味どころではなく、生活がかかっていた。はたして地元から砂金が出ることが好事なのかどうかわからない。

ほどなく駿河国(現在の静岡県)からも金が発見された。一旦あるとわかれば、皆そういう目で探しはじめるというよい例だ。さらに八溝山地の陸奥国側(現在の福島県)など、その他の産地も見つかり、最終的には奈良の大仏とその他の建築内装に用いられたものも併せて1万3000両にまで達した(鈴木、同上)。

日本列島からの砂金の発見は、奈良時代中期には数年〜十数年に一回派遣されていた遣唐使にも影響を与える。

金は貴重で高価であるのはもちろんのこと、腐らない・錆びない・虫に食われない・かさばらない・小分けができるという特徴がある。紛失・盗難を横におけば、旅行に持参する対価としては最高である。

「黄金の国ジパング伝説」の発端

そしてこの特徴は万国共通。必然的に砂金は、遣唐使一行が持参する朝貢品のおもなものとなった。東アジア基準で当時の日本は文化後進国であり、ほかに喜んでもらえそうなものを生み出せていなかったということはあるが、素材そのものとして希少な砂金は交換の対価として大きな役割を果たし、各種漢籍・仏教経典・仏像・仏具・美術工芸品・薬物などの購入費に充てられた。

また、入唐する使節に対する恩賜、長期留学生の滞在費としても中心的な役割を担った政治形態、法律、都市の作り、仏教、詩歌などなど、遣唐使が当時の日本へ移植したものを数えれば、そのインパクトの大きさに驚くことになる。間接的にではあるが、砂金の産出が日本という国のあり方に及ぼした影響ははかりしれない。

このように砂金は、日本からの朝貢品リストの重要な位置を占め、留学生もみな砂金で精算するものだから、大陸に、日本列島には黄金が豊富に存在しているというイメージを植え付ける。

これが国際的な大都市長安に滞在していた外国商人の耳に届き、尾ひれをつけた黄金のジパング伝説がイスラム世界やヨーロッパにまで広がってしまうというおまけまでついた。