630年に日本の朝廷から唐へ公式の使節が派遣されてから、約200年にわたって「遣唐使」は海を渡った。なぜこれほど長期間にわたって続いたのか。茨城大学の伊藤孝教授は「理由のひとつに、平安時代に日本各地で砂金が産出したことが挙げられる。これが唐への朝貢品や遣唐使たちの滞在費となった」という――。

※本稿は、伊藤孝『日本列島はすごい』(中公新書)の一部を再編集したものです。

遣唐使船
遣唐使船(画像=貨幣博物館蔵/PHGCOM/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

なぜ縄文人の遺跡から「金」は出ないのか

日本列島には無数の縄文時代遺跡、貝塚が存在するが、そこから砂金がザクザクと出てきた、という報告を聞いたことがない。

現代人は滅多に川原に立つこともなくなったが、縄文の人々は毎日のように小川のほとりへと足を向けたことだろう。われわれが日に何度も洗面台や台所へいくようなものだ。

しかし、メガネが必要ないほど視力がよかった縄文人たちは、砂金には目もくれなかった。先史時代、黄金は美の対象でも、信仰の対象でも、ましてや経済の対象でもなかったということにほかならない。

一方で、黒曜石は場合によっては数百km先の産地からであっても入手していた。本当に要なものは、なんらかの方法で手に入れていたのだ。当時、驚くほど貴重品であったその黒曜石の塊から、しなやかな鹿の角を使って一撃で細石をたたき出せるほどの観察眼と手先の器用さを持ち、火焔型土器で美の最先端を競っていた縄文人は、砂金など歯牙にもかけなかった。

縄文時代中期、地球の外周の4分の1ほど離れた古代エジプトでは、人々はもう黄金に魅了されていたが、日本ではだいぶ様子が異なる。

日本列島人が最初に見た金の塊は、「漢委奴国王印」なのだろうか。これは紀元1世紀に伝わった可能性が高いとされる。北部九州ではその100年以上前から銅矛が作られ続けてきたので、真新しい青銅器が発する光沢まぶしい金色は、少なくとも支配者層にとっては珍しいものではなかったろう。それに銅矛は圧倒的にでかい。