金属の視点で日本列島を見ると…

そんな人たちの目に、わずか一辺が2.3cm、109gのちっぽけな金色の物体がどう映ったのか。うやうやしく「漢委奴国王印」を授けられた人がどんな表情を浮かべ、内心何を思ったのか、大変興味がある。

やがてわれわれは経験を積み、「徐々にくすんでいく金色」(青銅器や天然に産する黄鉄鉱)と「輝き続ける金色」(金)があることを知る。空海は『性霊集』のなかで、「金は不変之物也」と書いている。平安時代初期には日本においても金は変わらないもの・朽ちはてないものの代名詞となっていたことがわかる。

そして、もちろん皆が目の色を変え、欲しがるのは「輝き続ける金色」のほうだ。そこからの展開は早い。そしてお決まりのコースともいえる。現在も金は金融資産の一つに数えられ、インターネットで検索すれば、1gの価格はいくらかがすぐわかる。

本章では、贅沢品であり、長きにわたり人類を魅了してきたこの金属の視点で日本列島を眺めてみたい。なお、本章では金山という言葉を使用した。これは金を産する鉱山を意味する。金山からは一般に金に加えて銀も得られるが、金と銀の割合は非常に変化に富む。

たとえば、あとで登場する佐渡相川金山のように銀のほうが数十倍富む場合もあるが、ここではその多様性には頓着せず、一律に金山とした。また、岩石中でとくに金が濃集している部分、金が濃集することに着目する場合は金鉱床と表現した。

聖武天皇が狂喜乱舞した出来事

仏教の伝来以前、日本列島に存在していた金・銀製品のほとんどすべては古墳に集中していたといわれる。生きている人々の生活を彩るのではなく、逝った有力者の副葬品として納められていたのだ。これら金・銀はすべて海外で産出したものであり、「輸入品」だった。

聖武天皇が、疫病の蔓延・天災などに心を痛め、仏教にすがり、天平15年(743年)に大仏造立の詔を発したとき、寄付集めの代表を担ったのは、第1章でも登場した最初の日本地図作者との伝承も残る行基であった。しかし当時の日本には巨大な大仏を覆い尽くせるだけの黄金は存在していない。

東大寺の大仏
東大寺の大仏(写真=Mass Ave 975/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

その詔からわずか6年後、こんなうまいはなしがあるのか、という絶妙なタイミングでついに日本列島からも金が産出した。陸奥の小田郡で砂金が発見されたのだ。

江戸時代後期以降、多くの研究者が、それはどこだったのかという検証作業を行ってきたが、現在の宮城県遠田郡涌谷町の黄金山神社のあたりということで意見の一致をみている(鈴木舜一「天平の産金地、陸奥国小田郡の山」)。

まず900両(約34kg)の金が献上され、聖武天皇は狂喜乱舞し、天平感宝と改元までしてしまう。さらに、当時の税金、租調庸のうち調(貢物)と庸(労役)については、陸奥国全域では3年間免除となった(鈴木、同上)。