制度の歪みが生んだ「違和感」
こうして見ていくと、冒頭の60代男性の違和感の正体は、ふるさと納税という制度の「いびつさ」に原因があるように思われる。
「ふるさとを応援する」という理念は完全に形骸化しており、大半の利用者は返礼品の内容以外見ていない。おせちの産地が田川市だろうが粕屋町だろうが、あるいは別の市町村だろうが、気にしない人がほとんどだろう。
「私は田川市を応援したくてふるさと納税をしたのに、粕屋町で作られたおせちが届いて大変ショックを受けている。どうしてくれるんだ――」
という心情に至るのが、ふるさと納税利用者の“正しい姿”である。が、実際にはそんな人はほとんどいないはずだ。事実、冒頭の男性はおせちの産地などまったく気にしていない。代替品の内容が過剰ではないかと違和感を覚えたのも当然だ。
違反があったのは事実であり、決して良いことではない。だが、その背景には完全に形骸化している理念と複雑すぎる制度がある。
「ふるさと」「納税」には無理がある
あるいは、この制度は「ふるさと納税」というネーミングの勝利だったかもしれない。ふるさと、という言葉を聞くと、多くの人はつい郷土愛や幼少期の甘く懐かしい思い出が喚起され、情感が揺さぶられる。
「ふるさとを守ろう」「ふるさとに恩返しを」といった言葉には、なかなか反対し難いものがある。が、そうした美辞麗句とは裏腹に、ふるさと納税は「都市から地方への税金流出システム」として巧妙に機能しているのが実態だ。さらに、ポータルサイトの運営やポイント付与といった事業に仲介業者が利を求めて群がり、中間搾取を行っている。
結果、都市部の自治体が集める住民税は減収し、行政サービスの予算は目減りすることになる。目先の返礼品に釣られた結果、都市住民は自分たちの住む街の公共サービスの劣化を促していると言える。こうした問題から、東京都ではふるさと納税の見直しを求める見解を発表している。
何の縁もない土地を「ふるさと」と呼び、寄付を「納税」と言い換えていることに、そもそもの無理があるのではないか。