同六年には、伊達政宗たち東国の大名が動員されて、内桜田門から清水門までの石垣が造られた。外桜田門などの城門が整備された。同八年には本丸御殿が改築された。秀忠が嫡男家光に将軍職を譲った同九年には、焼失していた天守が再建される。

北条氏の支城に過ぎなかった城なのに…

家光が三代将軍となると、江戸城の拡張工事は最終段階を迎える。寛永六年(一六二九)正月から開始された工事は、御三家をはじめとする徳川一門の大名や、譜代・外様の大名に加え、旗本までも動員した大規模な天下普請だった。この時の工事で、江戸城内郭の城門や石垣が築かれている。同十二年には、三の丸を狭めることで二の丸が拡張された。

同十三年には守りが手薄だった江戸城西北部の外郭を強化するため、牛込から市ヶ谷、四ツ谷、赤坂を経て溜池に至る堀を開削した。この外堀に沿って城門も築造された。

ここに、江戸城総構が完成した。

江戸城の外郭が確定したことで、江戸城の拡張工事は終了する。関東に転封された家康が江戸城を居城に定めてから、約半世紀が経過していた。

北条氏の時代、その支城の一つに過ぎなかった江戸城は、家康が北条氏に代わって関東の太守となったことで新たな段階を迎える。小田原城に代わって、その居城に定められたが、面目を一新したのは江戸時代に入ってからである。

家康が武家の棟梁たる将軍に任命され、天下人の座に就いたことが決定的だった。

関東転封のピンチをチャンスに変えた

しかし、家康が天下人の座に就けたのも、豊臣政権下で最大の石高を誇る大名に成長していたことが何といっても大きかった。関東転封を境に家康の所領はゆうに倍増する。北条氏旧領に封ぜられた関東転封がなければ、とても叶わないことだった。

安藤優一郎『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)

国替えは新領主にとりリスクを伴ったが、家康の場合、新たな領民たちがその支配に抵抗して反乱を起こすことはなかった。要するに、北条氏の遺産をスムーズに継承することに成功した。

その上、石高の半分を直轄地に組み込むことで実力を蓄えることができた。国替えを活かして、家臣団の統制にも成功する。要するに、リーダーシップを発揮できる環境を整えたのである。こうして、権力基盤を強化した家康は天下取りの時を待つ。

秀吉の死後、家康は関東の太守として蓄えた実力をバックに豊臣政権を牛耳る。そして関ヶ原の戦いを経て将軍に任命されることで、豊臣政権を消滅させた。江戸幕府を樹立したことで、江戸城は天下人たる将軍の城として生まれ変わる。

関東転封というピンチをチャンスに変えた類まれなる能力が、世界最大級の都市となる江戸を誕生させた。家康の関東転封を通じて、家康なくして江戸、ひいては現在の東京はないことが改めて確認できるのである。

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