その時のやり取りの速記録は、後に『昔夢会筆記』として刊行される。当事者が幕末政治の裏事情を語る貴重な証言集だが、慶喜は伝記編纂を通じて政治行動を弁明する機会が得られたとも言えるだろう。
『徳川慶喜公伝』の編纂作業は次のとおりである。編纂員が1章ごと原稿を提出してくると、まず渋沢が目を通す。その上で慶喜の供覧に呈し、チェックを受ける行程だった。
明治天皇の崩御と慶喜の死
会主となった昔夢会で伝記編纂を指揮する一方、引き続き、渋沢は慶喜を支え続ける。
渋沢は桜の名所として知られた東京の飛鳥山に邸宅を持っていたが、桜や牡丹の咲くころに慶喜を招待するのが恒例だった。その折には、徳川一門も招いている。
維新以来、微妙な関係にあった慶喜と徳川一門の融和という意図も秘められていたことは想像に難くない。慶喜の政治的ミスで、朝廷からの追討対象となったことへの批判が一門内で渦巻いていたことは否めなかったからだ。
そんな晩年を送っていた慶喜が大きな衝撃を受ける出来事が起きる。
明治45年(1912)7月30日に、明治天皇が崩御したのだ。病気がちだった慶喜も後を追うかのように、翌大正2年(1913)11月22日に死去する。享年77歳であった。
弔問の勅使も派遣された慶喜の葬儀は30日に執り行われ、渋沢も葬儀委員に名を連ねる。葬儀後、慶喜は東京都台東区の谷中墓地内(現・谷中霊園)に葬られた。
葬儀当日、東京市は市役所や市電に弔旗を掲げ、市民には歌舞音曲を遠慮するよう促した。25日には臨時東京市会が開かれ、慶喜への哀悼文が決議される。東京市長阪谷芳郎の妻は次女の琴子であり、あまり指摘されることがない渋沢の政治力の賜物だった。
慶喜の墓前に伝記を捧げる
生前には間に合わなかったが、4年後の大正6年(1917)に『徳川慶喜公伝』は完成する。附録や索引編などを加えると、全8冊の大部なものとなった。大正7年(1918)に渋沢の名で刊行されたが、『昔夢会筆記』は大正4年(1915)に25部のみ印刷され、編纂員に配布された。
刊行に先立ち、渋沢は慶喜の墓前に献呈する奉告式を執り行っている。
大正6年11月22日、慶喜の墓前に設けられた式場に参列したのは、徳川家側から慶喜の跡を継いだ公爵・徳川慶久など。編纂側からは渋沢のほか、編纂員の面々。伏見宮博恭王妃となっていた慶喜の九女経子も臨席した。
神官が祓をおこない、神饌を捧げた後、墓前に進み出た慶久が伝記編纂の趣旨が盛り込まれた奉告文を読み上げた。そして、渋沢が完成した伝記を墓前に供え、伝記の完成を泉下の慶喜に報告した。その後参列者が玉串を捧げ、式は終わった。