明治維新の最大の功労者であることを証明したい

伝記編纂に際して渋沢が取ったスタンスとは、何よりも慶喜の名誉回復であった。朝廷への恭順姿勢を貫いた慶喜こそ、明治維新の最大の功労者であることを証明したいという強い思いがあったと言える。

渋沢栄一

当初、渋沢は同じく幕臣出身の福地源一郎に編纂事業を依頼したが、明治37年(1904)に福地が衆議院議員に当選したため多忙となり、編纂事業は一時中止となる。そして2年後の明治39年(1906)には福地が病没してしまう。

ここに至り、渋沢は方針を転換する。東京帝国大学教授で史料編纂掛主任を勤める三上参次に相談し、歴史の専門家に編纂を依頼することにした。

幕府関係者に慶喜の伝記編纂を委託すると、どうしても幕府側の立場からの叙述となる。内容が幕府寄りのものになれば、不公平な叙述と後世の批判を浴びるだろう。それよりも、中立的な立場で歴史を叙述する専門家に委託した方がいいとアドバイスされたのだ。そして、編纂の主任として東京帝国大学教授の歴史学者・萩野由之を推薦される。

渋沢もそのアドバイスを受け入れ、荻野たち歴史学者が編纂事業に携わることになった。

編纂所は日本橋兜町の渋沢事務所に置かれた。荻野たちがそこに通い、慶喜の伝記『徳川慶喜公伝』の編纂事業はスタートする。明治40年(1907)6月のことであった。

伝記編纂を通じて、弁明する機会が得られた

明治維新の折、朝敵に転落したことは触れられたくない過去であった。それゆえ、慶喜は伝記編纂には消極的だったが、公爵を授けられるなど名誉が回復されると、忌まわしい過去を直視することをいとわなくなる。既に40年の歳月が過ぎていた。

こうして、編纂員の質問にも進んで答えはじめる。慶喜を招いて編纂員が直接質問できる場が設けられたからだ。慶喜の厚い信任を得る渋沢でなければ不可能なことだったろう。

慶喜を囲む会は昔夢会と呼ばれた。慶喜自身の命名だったが、渋沢も昔夢会に参加し、会主を務める。座長といったところだ。

正確を期すため、幕末時の込み入った事情を慶喜みずから編纂員に説明することさえあった。その回答に疑問があれば、編纂員が関連史料を提示し、直接慶喜に問い質す場面もみられた。慶喜が返答に窮することもまれではなかった。

慶応3年(1867)4月、朝廷は幕府の了解を取らずに薩摩・鳥取・岡山藩に京都などの警備を命じたが、これを知った慶喜は激怒する。朝廷のトップである摂政・二条斉敬に対して、この件の責任を取って辞職するよう迫ったとされるが、慶喜はその事実を否定する。だが、編纂員が証拠の記録を提示したところ、よく覚えていないと玉虫色の回答に変わってしまった。記憶にないというわけだ。