実業家の渋沢栄一は晩年、旧主である徳川慶喜の伝記の編纂に心血を注いだ。歴史家の安藤優一郎さんは「明治維新は薩長の功績ではない。旧幕臣の渋沢には、朝廷への恭順姿勢を貫いた慶喜こそ明治維新の最大の功労者であるという強い思いがあった」という――。

静岡で「世捨て人」になっていた徳川慶喜

12月26日に最終回を迎えるNHK大河ドラマ『青天を』では、日本資本主義の父・渋沢栄一と最後の将軍・徳川慶喜の厚い信頼関係が描かれた。だが、維新後の二人の人生はまさに対照的だった。

3歳年下の渋沢が実業界で脚光を浴びる一方、戊辰戦争の幕明けを告げる鳥羽伏見の戦いで朝敵に転落した慶喜は日陰の身の生活を送っていた。

天皇をトップとする朝廷つまり明治政府に恭順の姿勢を示すことで赦免されたものの、その後約30年にわたり、静岡で世捨て人のような生活を送ることで謹慎の姿勢を示し続ける。

そんな慶喜の姿を深く慨嘆したのが渋沢である。

慶喜は農民だった渋沢を武士に取り立てた上、フランス留学の機会を与えてくれた恩人だった。維新に先立って西洋の経済をリアルに知ったことで、明治に入ると経済の近代化をリードする人物に成長することができた。

今の自分があるのは慶喜のおかげと信じる渋沢はその恩義に報いるため、静岡で謹慎を続けた慶喜の元を度々訪ね、無聊ぶりょうを慰めた。落語家や講釈師を連れ、慶喜の前で語らせたこともあった。慶喜の資産を株に投資したり、銀行に預けて利殖することで家計も支えた。

慶喜も渋沢の心遣いに対して心を開くようになる。こうして、二人の厚い信頼関係が築かれたが、渋沢としては日陰の身を甘受する慶喜の姿を見るたびに、光が当たる場所に再び出てほしいと思わずにはいられなかった。