華族のトップとして名誉は回復したが…
慶喜が静岡での自主的な謹慎生活を切り上げて東京に出てきたのは、明治30年(1897)のことである。翌31年(1898)には皇居に参内し、明治天皇と皇后への拝謁を許される。
これにより慶喜の心もようやく晴れ、名誉回復が成ったと考えたようだが、この程度では満足しなかった渋沢は慶喜へのさらなる殊遇を政府に望む。
当時は華族制度が設けられていた。かつての諸大名や維新の功労者が華族として爵位を授けられ、天皇を守る藩屏の役割を課せられたのだ。慶喜の後を継ぎ徳川宗家16代となった徳川家達は五段階あった華族のトップ公爵に叙せられ、慶喜の息子で分家した厚は男爵。だが、慶喜自身には爵位が与えられなかった。
よって、同じく華族に列せられることを渋沢は望んだが、慶喜の殊遇をめぐり政府内には異論もあった。苦慮した渋沢は大蔵省で同僚だった伊藤博文や井上馨に密かに相談している。その結果、明治35年(1902)に至って慶喜は公爵に叙せられた。
華族のトップとなったことで名実ともに名誉回復が果たされた慶喜だったが、その功績を後世に伝えたいと念願する渋沢はある構想を温めていた。
「朝敵」に転落した過去を、いまさら触れられたくない
ある構想とは、慶喜の伝記編纂事業だった。
戊辰戦争が長引かず、徳川幕府から明治政府への政権交代つまりは明治維新が割合スピーディーに実現したのは、臆病者と謗られても朝廷への恭順を貫いた慶喜の政治姿勢に求められることを、その伝記を通じて天下に知らしめたいと考えたのである。
これにしても、渋沢による慶喜の名誉回復運動の一環だった。
渋沢は私財を投じて伝記編纂に着手しようとしたが、それには慶喜の許可が必要と考えた。よって、慶喜に打診するが、やめてほしいと断られてしまう。
朝敵に転落した忌まわしい過去が伝記で取り上げられることを懸念したのだ。もともと尊王の志があつかった慶喜にとり、決して触れられたくない過去だった。
だが、渋沢は粘る。
今のうちに史実を集めて文章を残しておかないと、後世に史実が誤って伝えられることになる。せめて伝記の編纂事業だけは認めてほしい。
慶喜は渋沢の懇望に折れて伝記編纂を許可したものの、生前中には公表しないよう釘を刺す。自分の死後、相当の時期が経過してから公表する条件の下、編纂事業を許可した。