行き過ぎたポリコレが、多様で寛容な社会を自ら掘り崩している

このレポートは、「『自分と関係のある問題にしか関心がないのでは?』という……予測は、悲しいかな、的中してしまったようだ」と結論づけている(安宅和人他『ビッグデータ探偵団』講談社現代新書、2019年)。現代社会の人々の関心事が、身の回り半径数メートルの近視眼的な範囲にとどまっている傾向を裏付けるものだといえよう。

一方で、近代「個人」概念は、自らの属性のみにとらわれることなくフェアで合理的な判断をなす存在としてあまりにも理想的に設定されてしまった。フェアで合理的な「個人」などという夢物語の概念に基づいて、人類としての幅広い相互承認を見出すなんて不可能だ! 分かる人には分かる「体験」という共通の物語で人を束ねて、限定された特定のアイデンティティの承認を求める闘争の方が、政治戦略としても現実的だ! 意識的か否かは別として、こうした判断と実践がなされた結果が、現在のアイデンティティの政治である。

そして、それは、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」概念と結びついた。行き過ぎたポリコレは表現を萎縮させ、リベラルが目指す多様で寛容な社会を自ら掘り崩し、息苦しい社会を作ってしまう。アメリカの右派は、このリベラルのポリコレを恰好の攻撃材料として標的にした。トランプ大統領の誕生をアシストしたのは、皮肉にもリベラルのポリコレの風潮であることは間違いない。

アメリカ民主党が特別に配慮する「17の集団」

コロンビア大学歴史学部教授のマーク・リラは、『リベラル再生宣言』(夏目大訳、早川書房、2018年)において、アイデンティティ・リベラリズムがもたらす社会分断の象徴として、アメリカ民主党のウェブサイトを挙げる。

このサイトには、総合的な国家ビジョンに関するペーパーの代わりにPeopleと題されたリンクのリストがあり、クリックすると特定のアイデンティティを共有する合計17の集団のために作られた専用ページに飛ぶ。女性、ヒスパニック、LGBT、アフリカ系アメリカ人……。

リラはこれを「何かの間違いでレバノン政府のウェブサイトにアクセスしてしまったと勘違いする人もいるかもしれない」と皮肉たっぷりに揶揄する(確認したが、現在のサイトはもう少し体系的なメッセージを発信しているようだ)。そして、この喩えののち、こう結論付ける。「アメリカの二大政党の一つがアメリカの将来はこうあるべきというビジョンを示す場にはなっていないのだ」と。

アイデンティティ・リベラリズムは、権利を制約されている特定の集団を「弱い」集団として特別の配慮をしようとするが、「弱い集団」間の利害調整や、「弱くない」集団への配慮に欠ける。その上、「配慮」は必ずしも「解決」を伴わない。特定の「弱い」集団の承認欲求をセラピー的にその場しのぎで満たしても、多くの場合真の解決には向かわない。