「あなたは日本のどの機関、団体、公職を信頼できますか」というアンケートで、「信頼できる」の1位は自衛隊、「信頼できない」の1位は同率で国会議員とマスコミだった。弁護士の倉持麟太郎さんは「政治家とマスコミは『選挙ビジネス』をしているため、信頼されなくても構わないという構図ができあがっている」という――。

※本稿は、倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

日本の国会議事堂
写真=iStock.com/kawamura_lucy
※写真はイメージです

永田町まわりから民主主義を「解放」せよ

「政治的なるもの」の惰性で民主主義を回している限り、本質的な議論も責任ある決断も行われようがなく、したがって、アイデンティティの政治、グローバリズムの副作用、ネット言論空間における社会の分断、国会の形骸化や法の支配の空洞化など、日本社会の病理を根本的に治療することは難しい。

ここにいう「政治的なるもの」とは、政党を中心とした政治家・メディア・市民運動体など、政治という名の選挙ビジネスを飯のタネにしている永田町まわりの人々の総体だ。

だからこそ、選挙と政党から、民主主義を「解放」しなければならない。今現在我が国で行われている学芸会的「ミンシュシュギ」の幕を下ろし、なんとかして血を流さずに、しかし血の通った本物の民主主義へと再生させなければならないのだ。

さあ、この21世紀の日本社会において、敗戦や革命など国内外の多大な犠牲と引き換えにせずとも、新しい民主主義をスタートさせることは可能なのか。その挑戦のメニューが、立憲主義の制度的強化と民主主義のルートの多様化である。

崇高な価値を語っても「うさん臭さ」が浸透するだけ

リベラルが再度人々の心や理念を超えて受け入れられるためには、リベラルが大切だと考える権利や自由が一部の特権的な人のためのものであったり絵に描いた餠でないのだという実感を、人々がその属性に関係なく持てるかどうかである。具体的には、

①法が定める「手続」:誰でも共通の手続を経れば実質的に権利・自由の救済や異議申立てが可能であり、その条件が多元的・多層的な手段で担保されていること
②法の「中身」:リベラルな価値がどのようなアイデンティティの人間に対しても等しく適用されるように基準が明確化・明文化され解釈の余地ができる限り統制されていること

である。

崇高な価値をいくら語ってもその原理が自分たちには適用されないと考える人が存在すれば、その人は疎外感を覚え、むしろリベラルの「口だけ」「うさん臭さ」が社会に浸透する。

立憲主義の強化とあわせて、リベラルの再生に欠かせないのは民主主義のルートの多様化だ。