SEALDsさえも「同窓会」になってしまった

世界的に、選挙代議制民主主義に対する限界や不満が叫ばれ、そうした叫びは具体的な運動へと発展している。日本でも、集団的自衛権の行使を一部可能にした2015年の新安保法制に対しては、SEALDsを中心とした数万人規模の反対デモが行われた。

倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)
倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)

しかし、このSEALDsも含めて日本の既存の市民運動は、政党や党派性と表裏一体となった選挙密着型市民運動の側面が強い。その多くは、意識的かどうかは別として、実質的には選挙の「ためにする」市民運動であり、結果として、既存の選挙代議制民主主義を前提にした党派性政治の構図を円滑に再生産し続けるための集団と化している。

この評価は厳しすぎるのではないか、と感じるかもしれない。たしかに、SEALDsを中心とした安保法制をめぐる国会前のデモは、少なからず新しい層にリーチしたことは間違いない。何を隠そう、2015年8月30日の最大規模の国会前デモに私も生まれて初めて参加したほどだ。最初で最後のデモ経験であった。

しかし、その後、SEALDsを中心とした運動体は市民連合などの既存の政党・党派性密着型市民運動に吸収されてしまった。あれ以来、同じくらい大規模のデモはないばかりか、結局は市民運動という名の集会はすべて決まりきった人々の「同窓会」状態である。

集団的思考停止の「永田町脳」から解決策は生まれない

中身はといえば参加者が「そうだ!」の掛け声を繰り返すことで、自分たちの考えが唯一正しいことを確認し合う集団的思考停止の空間である。対話や議論によって新たな争点に対する新たな解決策を模索するような空間とは程遠い。

日本においては、結局のところ、現行の選挙代議制民主主義への不信を現行の選挙代議制民主主義の枠組みの中で解消しようとする取り組みしか存在せず(このように、なんでもかんでも「永田町のルール」に則って考えることを、私は「永田町脳」と呼んでいる)、枠組みの外側に飛び出していくような新しいカウンター・デモクラシーは存在してこなかった。

本来カウンター・デモクラシーは、既存の代議制民主主義と敵対するものではなく相互補完的なものである。我々市民が、「選挙」という機会でしか政治に対する民意の入力ができないとすると、あまりに機会が乏しい。したがって、政治への民意の入力機会を日常的・恒常的に補うのがカウンター・デモクラシーである。

「点」の選挙から「線」のカウンター・デモクラシーへ

選挙が「点」だとすれば、カウンター・デモクラシーは、「線」だ。既存の民主主義を放棄することはできないことを前提とした上で、既存の民主主義のより豊かな正当性の調達先として、カウンター・デモクラシーは存在すべきである。

あわせて、この「線」自体のバリエーションが増えないと、カウンター・デモクラシー自体も脆弱なものとなり、結局は既存の選挙代議制民主主義の磁場に引きずられて、吸収されてしまう。現在の特に我が国の選挙代議制民主主義がカバーしている範囲があまりに狭すぎるため、カウンター・デモクラシーが担う役割は相当広範囲にわたる。だからこそ、力まずに多様なチャレンジが可能なのだ。

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