格差や分断がキーワードになっているのに、世界中で「リベラル」と呼ばれる勢力が退潮している。なぜなのか。弁護士の倉持麟太郎さんは「リベラルは特定の集団を『弱者』としてきたが、その実態は『会員制のバー』になっている。それではリベラルへの不信は避けられない」という――。

※本稿は、倉持麟太郎『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

国会前で行われた市民集会で安倍政権を批判する参加者たち=2018年4月14日、東京・永田町
写真=時事通信フォト
国会前で行われた市民集会で安倍政権を批判する参加者たち=2018年4月14日、東京・永田町

「実際に体験した人にしか分からない」という狭すぎるロジック

ハーバード大学のヤコブ・ホーエガーは「Lived Experience vs. Experience」という図式を提示する。前者は他者とは共有できない主観的な「生ける経験=体験」であり、後者は他者と共有できる客観化された「経験」である。「体験」には当事者がいる。そして、「実際に体験した自分にしか分からない」からこそ素晴らしく、価値がある! そう位置付ける。自分の体験が、そう簡単に他者によって再現され普遍化され「経験」へと変換されてしまっては困るのだ。

「体験」ベースで共通項をくくっていけば、人や集団のカテゴリーはどんどん細分化していく。たとえば、「人間」から「女性」に、女性から「子どものいる女性」に、子どものいる女性から「働きながら子育てする女性」に、働きながら子育てする女性から「非正規で働きながら子育てする女性」に……。

その過程で、集団の垣根を越えた「経験」を介して相互理解を深め価値観を共有する可能性が失われていく。それどころか、「女性」と「男性」、「子どものいる女性」と「子どものいない女性」、「働きながら子育てする女性」と「家庭にいて子育てする女性」、「正社員として働きながら子育てする女性」と「非正規で働きながら子育てする女性」というように、むしろ「体験」の有無をめぐって分断が深まっていく。ここでの主体(主語)は、ある特定の物語の「本人=当事者」であって、普遍的な「個人(individual)」ではない。

「非正規で働く子育て中の女性」でないと入場すらできない?

本来、「民主主義」や「人間の尊厳」そして「個人(individual)」という概念は、もともとは誰でも入れる市民会館や公園、広場のように、多様な人々を包摂する空間としてのプロジェクトだった。

しかし、「個人」概念にふるい落とされた人々によるアイデンティティの政治(アイデンティティ・リベラリズム)は、この空間を会員制のバーに変えてしまった。会員資格は、「非正規で働く子育て中の女性」であるとか「戦争を経験し集団的自衛権に反対する護憲派」であるとか、細分化された個別の「体験」「共感」の共有である。それらを共有していない者は、入場すら許されない。

興味深いレポートを紹介しよう。Yahoo! JAPANビッグデータレポートチームがビッグデータを利用して、政治的トピックに関する人々の属性別関心分布を分析した報告である(2017年4月~18年5月調べ)。

「森友・加計学園」についてはシニア層の関心が圧倒的であり、ヤング層の関心は薄い。男女を比較すると、「働き方改革」については男性の方が関心が強く、「少子化・子育て」については女性の関心が強い。

「原発」や「基地」問題についてのエリア別の関心分布をみると、辺野古の「基地」問題については西日本の関心が高いのに対し東日本の関心は低く、宮城県の女川原発や福島原発をはじめとする「原発」問題については東日本の関心は高いが西日本では低い。明らかに政治的トピックに関する関心分布は、年齢、性別、地域など自分がおかれた属性によって大きな関心の偏りがみられる。