人間は本質的にマルチタスクをできない
ワイヤレスイヤホンを耳に付けて、スマホで電話をしながら、両手でパソコンのキーボードを操作して電子メールを打っている――。このように複数の作業を同時並行で進めていることを、「マルチタスクをこなしている」と言うことが多いようです。そして、ビジネスの現場では、「マルチタスクを遂行できる人=デキる人」と評価しているようです。
考えてみると、マルチタスクは様々なところで行なわれているように思えます。身近な例をとると、日常生活における「家事」は「究極のマルチタスク」と言えるのかもしれません。例えば、朝食用のサラダの野菜を切るかたわらで、味噌汁の鍋の火加減を見る。そして、味噌を入れて味を確認しながら、子供たちの様子に目をやり、「今日は洗濯をしなければいけないんだから、早く着替えなさい」と促す……。2つ、3つどころではない複数の作業を、同時並行で進めているように見えます。
実は、認知症になった人が、最初にできなくなって「おやっ」と気づくのが、家事の一つである料理だと言われます。認知症にはいくつか種類がありますが、アルツハイマー型認知症では、自分の失敗について取り繕う傾向が見られます。「たまたま砂糖を切らしてしまったから、味が物足りない。」や「目を離している隙に焦がしてしまったから、今日は外食にしましょう」といったようにです。料理のように、計画を立てて、それを手際よくこなすには、脳の「実行機能」が円滑に働く必要があります。ワーキングメモリが充分に働くことで実行機能が成り立ちますが、アルツハイマー型認知症ではその機能に不具合が生じたのだと考えられています。
一見、私たちはマルチタスクをこなしているように思えることが多くあります。しかし、脳科学の見地に立つと、「人間は本質的にマルチタスクができない」と言えるほど、脳はマルチタスクが苦手なのです。
必要な情報を選択して注意を向ける「選択的注意」
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の「五感」を通して入ってきた様々な情報を、脳の中で処理する作業をしているのがワーキングメモリです。脳の中の作業台であるワーキングメモリは容量が限られており、その上に置いた限られた数の対象しか処理を進めることができません。
部下と話をしていると、視覚や聴覚を通して、仕事に関する情報がどんどん入ってきます。その情報に関連しそうな情報を自分の記憶のなかから引っ張り出してきて、お互いを照合したり練ったりしながら、適切な答えをつくり、今度は自分の口からその情報を発します。
「顧客のA社では、こんな部材が手に入らず、研究開発が頓挫して困っています」
「そうか。それなら、生産本部のB部長に相談してみよう。彼なら、当社が扱っている部材のなかから、最適なモノを提示してくれるはずだ。それをプレゼンすれば、より強固な信頼関係を、A社との間で構築していくことができるようになるだろう」
このような会話には、さほど時間を要さないでしょう。その中で、ワーキングメモリの処理作業は、「顧客A社の困りごと」という情報への対応に集中しています。ほかのことに処理能力が振り分けられてはいないのです。
認知心理学の世界では、このようにワーキングメモリという脳の限られた処理資源を有効活用するため、不要な情報には処理資源を割り当てず、必要な情報だけを優先的に処理するといった最適化を行なうことを「選択的注意」と呼んでいます。自分にとって必要な情報を選択して、そこに集中的に注意を向けることで認知機能の資源を有効活用しているわけです。
処理作業は瞬時に切り替えられている
結局のところ、処理の作業台であるワーキングメモリにはいくつかの情報が乗っていますが、ある瞬間において注意が向けられる対象は一つだけなのです。これは、演劇の舞台にスポットライトが当たっている状態にたとえることができます。真っ暗なところに舞台があって、上からスポットライトが当てられているのは1人の役者だけ。次の瞬間にスポットライトが切り替わって、今度は別な1人の役者だけに当てられる。すると、前の役者は暗闇に消え、いま見えている役者だけに注意が向けられるようになる。このような具合に、パッパッと注意のスイッチが切り替わっているのです。
先ほど五感を通して様々な情報を得ていると言いましたが、人間の場合は、その五感のなかでも視覚から得る情報が優位です。脳の中に入ってくる情報全体の8割から9割を、視覚から得た情報が占めていると考えられています。
そうした視覚から得た情報に対して、極度なまでの頻度で選択的注意を繰り返しているのが、スマートフォンを操作しているときです。スマホの画面にはいくつもの情報が、瞬時に現れては消えていきます。その都度、選択的注意のスイッチが切り替えられ、ワーキングメモリはフル稼働状態です。ほかのことには、なかなか注意が向きません。
私たちも、歩きながらスマホを操作する「歩きスマホ」で危ない目にあうことがあります。これは、スマホの操作で注意が固定され、周囲の情報が脳の中で処理されていないことが原因だと考えられています。スマホに気を取られてしまうことで、周囲を歩いている人に当たる程度ならば謝って済むかも知れませんが、自転車や、自動車にぶつかったりするケースも散見されます。階段を踏み外して入院したという話までニュースで取り上げられたこともあるくらいです。このように、私たちが外界から情報を得るためにかなりの比重をかけて頼っている視覚の注意がスマホに向けられてしまうと、ほかに注意を向ける余裕がなくなって、事故につながることもあるというのは、脳の機能を考えると、至極自然なことなのです。
さて、冒頭で見た家事について考え直してみます。野菜を切ったり、味噌汁の味を確かめたり、マルチタスクをこなしているように見えます。しかし、厳密に切り分けて見ていくと、一つひとつの処理作業は同時並行で進められているわけではありません。瞬時に注意を切り替えながら行なわれています。ただし、スマホを操作しているときと違って、料理をこなすために注意を切り替えていく間隔には、時間的な余裕があります。だから、鍋から味噌汁が吹きこぼれそうになっても、火を止めて対応ができるのです。
このように、一見してマルチタスクをこなしているかのように思えても、厳密には同時並行で処理作業をしているわけではなく、注意を切り替えながら、一つひとつ順番に対応しているに過ぎないのです。つまり、複数のことに関与しながら、うまく対応していく「マルチアサインメント」を進めているのが実態といえるでしょう。


