出家者には、法話をするなど、想像していたよりもたくさんの義務があります。そして、義務を果たすことは、正直言って楽しいことばかりではありません。

年の数だけ引っ越しをしてきたという寂聴さんが住む京都・嵯峨野にある寂庵。庭には、こだわりの木々や花が植えられ、お地蔵様の姿も。中には寂聴さんが彫られたものもある。寂庵では写経の会や法話の会が開かれる。HP(http://www.jakuan.com/

ところが、小説を書くことは私にとって快楽なのです。この快楽を手放したくないという欲望が、私にはある。煩悩は捨てなくてはなりませんが、私はいい小説を書きたいという煩悩だけは、今も捨て去ることができません。

でも、死ぬまで煩悩を抱えて生きるのが、人間というものです。煩悩を完全になくせばブッダ(悟った人)ですが、世の中ブッダばかりになってしまったら、ちょっと困るでしょう。だから私は、そんなに立派なお坊さんではないのです。

同時代を生きた作家や著名人との奇縁を綴る『奇縁まんだら』(日本経済新聞に連載、9月に終了)というエッセイを足掛け5年書き続けながらつくづくと思いましたが、人間はみんな死にます。川端康成さんも、三島由紀夫さんも、遠藤周作さんも、つい最近は北杜夫さんも、みんな死んでしまった。私のように90まで生きてごらんなさい。親しい人間は全部死ぬんだということが、よくわかります。

だからもう、私は死ぬことも怖くないし、病気も気にしません。昔、60歳ぐらいの頃、ちょっと心臓の存在を感じるようになって、東京で三指に入るという心臓のお医者さんに診てもらったことがあります。お医者さんが、「講演旅行なんてとんでもない。年寄りらしく庭で草むしりでもしていなさい」とおっしゃるので、「どうせ心臓が悪くて死ぬのなら、もっと仕事をしてやれ」と思って、仕事を倍に増やしたことがありました。そうしたら、私は死ななかったのに、そのお医者さんが亡くなってしまいました。

いまは糖尿病を患っていますが、お酒は飲むし、肉は食べるし、チョコレートも食べる。不摂生をしていますが、数値は悪くなりません。人間はみな死んでしまうのですから、病気だろうと何だろうと、あまり気にしないほうがいいのです。