娘を大名の妾に差し出せば500万円相当が支払われた

娘はあくまで大名の妾だが、もし子供を産むと、しかも男の子を産むと、たちまち側室となる。

というのは、大名家では(将軍家も同じだが)、正室が子供を産むことはほとんどなかった。そのため、側室が男の子を産めば、その子が将来、次の藩主になる可能性は大きかった。

その場合、庶民の娘は、大名の実母になる。大出世だった。

また、娘の両親は、大名の実の祖父母になる。とはいえ、藩主の実の祖父母が庶民で、裏長屋などに住んでいては世間体が悪いので、大名家は二十人扶持くらいの家禄をあたえ、体裁をととのえさせた。こうして、両親も大出世だった。

大名の妾は、『江戸繁昌記』の囲い者の上・中・下でいえば「上」、いや「極上」と言ってよかろう。

図版5は、大名と、寵愛する妾である。妾は周囲の奥女中にいじめられると訴え――

妾「わたくしは、どのようにいじめられましても、いつまでも御前のお側に、おりとう存じます」
殿「おお、俺も、どのようなことがあっても、そちばかりは一生、側へ置くぞ」

――と、大名はますます夢中になっている。

妾は見事、大名を篭絡したと言えよう。

大名と妾
図版5:大名と妾[歌川国虎『男女寿賀多おとめのすがた』1826年(文政9)、国際日本文化研究センター蔵]

「下」ランクの愛人は親と同居のまま、男が通ってきた

では、『江戸繁昌記』が上・中・下にランク分けした囲い者の中で、「下」の実態はどうだったのであろうか。同書によると、

とても戸建ての借家などは用意してやれないので、女にはそれまでの住居に親と一緒に住まわせておき、旦那が通う方式だった。二階建ての家の場合、女は二階で旦那を迎え、両親は一階で平常通りの生活を続ける。

というものだった。親にしてみれば、自分の娘のもとに男が通ってくるわけである。

しかも、当時の木造家屋では、2階と1階であれば、行為の様子こそ見えないが、物音や声は筒抜けだった。

もちろん、近所にも、「あそこの娘は囲い者になって、男が通ってきている」と、たちまち知れ渡った。