※本稿は、永井義男『江戸の性愛業』(作品社)の一部を再編集したものです。
籠の中の鳥のような生活をしていた遊女たち
吉原は昼夜を問わず、男の出入りは自由である。しかし、女は商用であれ私用であれ、中に入るのは自由だが、出るときは、大門のそばにある四郎兵衛会所の番人に手形(鑑札)を示さなければならなかった。
そのため、吉原に行商に来た女はあらかじめ、大門の外にある茶屋などで手形を入手した。吉原内に住む芸者が外に出るときも、茶屋などで手形を発行してもらった。
これは、遊女の逃亡を防ぐための措置である。四郎兵衛会所の番人が、大門から出る女をきびしく監視したのだ。
遊女は、大門から一歩も外に出るのは許されなかった。遊女が外に出られるのは、年季が明けとき、身請けされたとき、そして死んだときだけだった。
とくに死んだときは、菰に包まれ、若い者にかつがれて三ノ輪の浄閑寺に運ばれ、墓地の穴に埋められて終わりだった。浄閑寺は投げ込み寺と呼ばれた。
吉原の遊女は、籠の鳥だったと言えよう。
では、遊女は、セックスワーカーとしてはどんな生活をしていたのだろうか。
吉原は1日に2回の営業で、
昼見世 九ツ(正午頃)~七ツ(午後4時頃)
夜見世 暮六ツ(午後6時頃)~
に分かれていた。
自由時間の楽しみ
なお、この昼見世、夜見世の区分は岡場所や宿場にはなかった。
当時、人々は朝が早かった。泊った客も、夜明け前に妓楼を出ることが多い。いわゆる、朝帰りである。
▼図版1は、朝帰りする客を遊女が見送っている光景。左の遊女と客の遣り取りは――
「承知、承知」
――という具合である。男は遊女に何か約束をしたようだ。
遊女は図版1のように、泊り客が帰るのを見送ったあと、寝床に戻って二度寝をした。そして、二度寝から起き出すのが、四ツ(午前10時頃)である。
遊女の起床は四ツだった。もちろん、ほかの奉公人は早朝から働いていた。
四ツに起床した遊女は朝風呂にはいり、朝食を摂り、その後は髪を結ったり、化粧をしたりして身支度をしなければならないが、昼見世が始まるまでは自由時間でもあった。この時間帯は、行商人の相手をしたり、手紙を書いたり、本を読んだりして過ごした。