20代で病死する者が後を絶たない
吉原の妓楼には、大見世、中見世、小見世の区分があった。規模の違いと同時に、格式の違いでもあった。
しかし、妓楼の基本的な構造はどこも同じである。
妓楼は2階建てで、1階は奉公人の仕事と生活の場だった。台所や風呂、便所、楼主の居場所はすべて1階にあった。また、張見世も1階の通りに面した場所にもうけられていた。
2階は、遊女と客の場所で、花魁の個室や宴会場などがあった。
客が遊女と酒宴をもうけるのも、床入りするのも、すべて2階の座敷である。
▼図版5は、花魁の居室である。部屋には琴と碁盤があり、『源氏湖月抄』と『河海抄』が目に付く。ともに、『源氏物語』の注釈書である。花魁は文机の上にひろげた扇に、筆で和歌を書いていたようだ。
先述した、清河八郎の母親が見学した遊女の部屋も、図※のようだったに違いない。きっと、母親はその豪華さと、花魁の教養の高さに感嘆したであろう。
このように、花魁は豪奢な生活をしていたが、大部分の新造は大部屋で雑居生活だった。
▼図版6は、朝の大部屋の、新造たちのだらしない光景。
誰もが花魁に出世できたわけではなく、新造のままで終わる者が多かった。
それどころか、花魁にしても新造にしても、年季の途中、20代で病死する者が少なくなかった。
感染症と性病
妓楼は職住同一であり、多くの人間が密集して生活していた。しかも、遊女は自由に出歩けず、不健康な生活だった。
こうしたことから、労咳(肺結核)などの感染症にかかりやすかった。また、不特定多数の男と性交渉をすることから、梅毒や淋病などの性病に罹患し、健康を害する者が多かった。
そのため、遊女は年季の途中、20代で死亡するのが珍しくなかったのだ。
ただし、年季の途中で吉原から抜け出す、身請けという方法があった。客の男が、遊女の身柄をもらい受けるというものである。だが、大金が必要だった。
楼主は身請けに際して、その遊女が残りの年季で稼ぐであろう金額の補償を求めると称して、ここぞとばかりに吹っ掛けたのである。
▼図版7は、妓楼・三浦屋の遊女薄雲が、町人に身請けされたときの証文である。証文によると、元禄13年(1700)7月3日、金額は350両だった。
そのほか、身請けとなると朋輩や妹分の遊女、妓楼の奉公人一同、引手茶屋や芸者、幇間などに挨拶し、金品を贈らなければならない。さらに、盛大な送別宴も客の負担である。
そんな大金を出せる男など滅多にいない。身請けされた遊女は、ごく少数の僥倖を得た者だけと言えよう。その一例が、囲い者の項にある。
ほとんどの遊女は、年季明けの日を指折り数えて、ひたすら待つしかなかった。