※本稿は、下重暁子『怖い日本語』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。
なぜ世の中に「絆」という言葉があふれたのか
日本人はなぜか「絆」という言葉が大好きになってしまったらしい。
「絆」を口にする人はいい人で、やさしくて、人とのつながりを大事にする人だ、とでも思っているのでしょうか。
家族の絆に地域の絆、同級生の絆に、会社に入れば同期入社の絆やら、先輩後輩の絆。同じ趣味を持つ人同士も絆で結ばれているらしい。なぜ、これほど世の中に絆という言葉があふれたのでしょう。
私は2014年に『家族という病』という本の中で、「家族」を盲信する日本人について書き、なぜ私が家族にあえて背を向けて生きてきたのかを書きました。この本はありがたいことに多くの人に読まれましたが、批判もありました。
私が昔ながらの「家族愛」「一家団欒への夢」を否定することは「けしからん」「文化の破壊」「可哀想な人」ということのようでした。私は何を言われようとまったく気になりませんが、やはり家族に依存し、親子が依存しあう一家団欒が「夢」「理想」である人もけっこう多いのだなあ、と思ったものです。
誰かに依存しないと生きていけない
どんな家族をつくろうが、それは当事者の勝手ですから、人の家族のありかたをすべて批判するつもりはないけれど、私自身の意見は昔も今も変わりません。この本は震災後の2014年に出したものですが、「絆」という言葉には言及していません。
けれど、今あらためて考えてみると、私は家族を含めて、ある集団に所属したい、していないと安心できない日本の社会に強い違和感を感じていて、「絆」という言葉の氾濫に危惧の念を抱いていたということに気づきました。
確かに大災害のあと、日本中、世界中が国レベルから個人レベルまで、それはたくさんの支援が行われました。被災地でもその他の地域でも、支援や防災についても「地域の絆」「家族の絆」の大切さが認識され、強調されるようになります。その中で「絆」という言葉はひとり歩きをはじめて、急拡大したわけです。
被災者支援やさまざまな地域の協力、ボランティアへの参加は、当然良いことで、むしろもっと継続されていくべきです。しかし継続しているのは「絆」という言葉だけの拡大のように思います。