浜松の弱小メーカーを世界のSUZUKIにした
スズキ株式会社の元最高経営責任者であり、中興の祖とも言うべき鈴木修さんが昨年末、94歳で亡くなった。
あまりに有名な自動車界のカリスマであり、あの豊田章男会長が「憧れのおやじさん」と公言するほどの人物だった。個人的には本格的なインタビューができなかったのが心残りだが、会食の場で数回お話したことはあり、そのフランクで圧倒的なキャラクターは今も憶えている。
昔から修さんの言動次第で「スズキの株価が変わる」(実際に12月25日は微妙下落)とか「軽自動車の行く末が変わる」とも言われ、影響力はハンパじゃなかった。また70代後半で会長から社長に復帰し、85歳まで会長兼社長を続けるなど、疲れ知らずの生涯現役っぷりもさることながら、成し遂げた業績がとにかく凄すぎる。
代表職を務めた期間は実に30年以上。1978年の社長就任時には3232億円だった売上高は、30年で3兆円と10倍。代表は退いた後だが直近24年も世界売り上げ5兆円超えと過去最高で、販売台数は国内2位と、あの日産を超えるレベルにまで育てあげた。
今回は業界人なら誰でも知っていることだが、スズキにおける修さんの偉大なる功績を、商品づくりを軸にお届けしたい。
「アルト」大ヒットの裏にあった独自アイデア
まずはなんといってもスズキアルトだろう。軽自動車のカローラとも言うべき1979年生まれの永遠の軽ベーシックだが、このクルマの存在やインパクトは修さんなしではありえない。私と同じ「おっさん世代」なら中学生ぐらいで目の当たりにした「アルト47万円」の衝撃を今も覚えているはずだ。
当時の軽はほぼ60万円台スタート。そこにいきなり47万円の超低価格で登場したのだから価格破壊っぷりったらない。
しかも時代は軽全体が排ガス規制もあって人気下降中。ホンダは軽から一時撤退。「戦後のオート3輪」の如く消え去る存在とも目されていた。オマケにスズキは排ガス規制対応新エンジン開発に失敗してムードも最悪。
さらに言うと1977年にはカリスマ創業社長、2代目社長、現職社長だった伯父が3人とも急逝。結果翌78年には2代目の娘婿である修さんが社長に就任。40代の若さでいきなり双肩に会社の未来が托されたわけで、恐るべきプレッシャー。その状況下で、見事にピンチをチャンスに変えてしまうから凄い。
なぜならそこで修社長はとんでもない大ホームランを放つのだ。その裏には、とんでもない独自玉手箱アイデアの数々があった。