徳川家康は長い生涯の中で幾度も危機を迎えている。歴史学者で健康科学大学特任教授の平山優さんは「小牧・長久手合戦後の家康は、国内外で難題を抱え苦境に立たされていた。その状況を救ったのは思わぬ天災だった」という――。(第2回)

※本稿は、平山優『小牧・長久手合戦』(角川新書)の一部を再編集したものです。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

家康を苦しめ続けた「戦国屈指の食わせ物」

天正12年11月、小牧・長久手合戦の終了後、家康は困難に直面していた。同盟者織田信雄が、秀吉に屈服したことで、信長以来の織田・徳川同盟(いわゆる清須同盟)は、完全に有名無実化した。そのため、家康は、今後迫り来るであろう秀吉の脅威に対抗するためには、北条氏政・氏直父子との同盟を頼りにする他なかった。

だが、北条氏との同盟を強化するためには、天正壬午の乱終結以来の懸案を解決しなければならなかった。それは、上野国沼田・吾妻領問題である。

家康は、北条氏と和睦、同盟を成立させた時に、上野国一国は北条領国とすることで合意していた。ところが、上野国沼田・吾妻領は、信濃国衆真田昌幸が自力で確保した領域であり、昌幸は容易にこれを手放そうとはしなかった。

家康は、天正11年以来、昌幸の説得を続け、徳川軍が対上杉戦の拠点として築かせた上田城を下賜した引き換えに、上野国沼田・吾妻領割譲を求めたが、昌幸は上田城を自分のものにしただけで、家康の要求にはまったく応じようとしなかった。

業を煮やした家康は、天正12年6月、信濃国衆室賀正武に命じて、昌幸暗殺を仕掛けたが返り討ちにあい、家康と昌幸の関係は悪化した。