重臣・石川のまさかの出奔
家康は、天正13年11月11日、本国三河における一向宗寺院の赦免を決定し、秀吉との対決に備え、一向宗の協力を得ようとした。その直後の、11月13日夜、徳川重臣石川数正は、妻女ら一族と小笠原貞慶の人質幸松丸(後の小笠原秀政)を連れて、岡崎を出奔し、尾張に退去したのである(『家忠日記』)。徳川家中は大混乱に陥った。
家康は、信濃小諸城で再度の上田攻めを窺っていた大久保忠世、平岩親吉、芝田康忠に、浜松に帰還するよう命じた。信濃には小諸城に大久保忠教が、伊那郡には菅沼定利、甲斐には鳥居元忠だけが残留した。
これに対し、上田城主真田昌幸は、佐久郡への侵攻を企図し、その後は甲斐を奪取する目論見を立てていた。そればかりか、昌幸は、景勝を通じて秀吉とも結び、その支援を取り付けることに成功し、松本城主小笠原貞慶も昌幸支援に動き出しつつあったのである。
また、秀吉の調略により、信濃伊那郡では、市田城主松岡貞利が謀叛を企てて鎮圧されるなど、動揺は広がりつつあった。
徳川氏は、11月18日より、三河岡崎城の大改修に着手し、城代として本多重次を配置した。11月23日には、三河衆の妻女らを、遠江国二俣城に移し、譜代らの離叛を防ごうとはかっている。
11月28日、石川数正出奔を受け、織田信雄は、織田一門織田長益、重臣滝川雄利、土方雄久を使者として家康のもとに派遣し、家康に秀吉との講和を勧告した。だが、家康はこれを拒否している(『家忠日記』他)。これで、秀吉との対決はますます避けられない情勢となった。
歴史を変えた天正地震
ところが、ここで歴史を変える大災害が発生する。11月29日亥刻(午後10時頃)、内陸部を震源とするマグニチュード7.2〜8と推定される巨大地震が、中部、北陸、東海地方西部、近畿地方を襲った(天正地震)。さらに巨大な余震が30日丑刻(午前2時頃)にも発生し、それは12月23日まで続いたという(『家忠日記』他)。
この地震は各地に大きな被害をもたらした。飛驒では帰雲山が大崩落を引き起こし、土石流により国衆内ヶ島氏理は居城帰雲城もろとも巻き込まれ、一族、家臣とともに滅亡したことは著名である。この他に、越中木舟城が崩落し、城主前田秀継とその夫人、家臣の多くが圧死したほか、近江長浜城も御殿などが倒壊し、山内一豊の息女与禰姫が圧死している。
秀吉が、来るべき徳川との戦いのために、兵糧や玉薬などを備蓄していた美濃大垣城も全壊焼失してしまった。織田信雄の本拠である伊勢長島城も焼失している。秀吉の居城大坂城にも被害が出ており、秀吉方の諸大名の多くが被災し打撃を受けた。
いっぽう徳川領国の被害は極めて軽微であった。この天正地震により、秀吉は家康を攻撃することが困難となったのである。天正13年は、各地を大飢饉が襲った年でもあったため、秀吉は、家康を軍事力で打倒する強硬路線から一転して、上洛を促す融和路線へと舵を切ることになった。