そして家康は秀吉に臣従した
天正14年1月、秀吉と信雄は、家康のもとへ富田知信、滝川雄利を派遣したが、徳川方は頑なであったようだ。そこで、織田信雄は、1月27日、自ら三河岡崎城にやってきた。家康も浜松城から岡崎に出向き、対面した。
信雄は秀吉への臣従を勧め、上洛を促したようだ。信雄は29日に伊勢に帰っている。ここに家康は、信雄の仲裁を諒解し、秀吉との和睦を受諾した(『貝塚御座所日記』他)。秀吉は、2月8日に「家康を赦免した」と諸将に報じている。さらに秀吉は、徳川領国の切り取りを目論む真田昌幸に、2月30日付で「矢留」(停戦)を命じている。
家康は、3月、同盟者北条氏政・氏直父子と駿豆国境の沼津・三島で会談を行い、万一、秀吉と戦争になった場合には協力することで合意している。
秀吉は、家康の上洛と臣従を促すべく、4月、秀吉の妹旭姫を家康の正室とすることとした。その後、双方の行き違いなどで一時緊張が走ったが、家康と旭姫の婚儀は、5月14日から3日間、浜松城で実施された(『家忠日記』他)。当時、家康は45歳、旭姫44歳であった。
家康は、5月24日、遠江二俣城に移していた三河衆の人質をすべて返し、東部城の破却を命じた(『家忠日記』他)。こうして家康は、臨戦態勢を解除したのである。