名古屋城天守の再建について議論が続いている。歴史評論家の香原斗志さんは「そもそもなぜ木造で天守を復元するのかという意義がいきわたっていない。そこを把握した上でバリアフリーについて考えるべきだ」という――。(第2回)

※本稿は、香原斗志『お城の値打ち』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

歴代将軍が建てたくても建てられなかった江戸城天守

徳川家光が建てたモニュメンタルな天守は、江戸の町の6割を焼き尽くした明暦3年(1657)の大火で焼失してしまい、以後、江戸城に天守が建てられることはなかった。

「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守
「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守(画像=国立歴史民俗博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

加賀(石川県南部)藩主の前田綱紀に天守台の再建が命じられ、それは完成したのだが、当時の将軍であった4代家綱の叔父、初代会津藩主の保科正之が、天守について、軍用としては役に立たず、ただ遠くが見えるだけのもので、そんなものよりも町の復興に人力を割くべきだ、と提言。それが受け入れられて、再建が中止されたのである。

保科正之が反対したという史実を踏まえ、再建すべきでないとする声もある。370年近く前に「必要ない」と決めたものを建てるのは、そもそも幕府の意思に反するのではないか、というのである。

だが、それは違う。当時の徳川幕府は江戸城に天守が「必要ない」と判断したわけではない。復興の優先順位を決める際、天守が後回しにされたにすぎない。だから、以後も6代将軍家宣と7代将軍家継の正徳年間(1711~16)に再建案が浮上し、詳細な図面も作成されたが、財政難が理由で実現しなかった。幕府は天守の再建を積極的にやめたわけではなく、余裕さえあれば建てたいと考えていたのである。

江戸城天守を正確に復元することは可能

幸いにも、明暦の大火で焼失した3代目天守は、「江府御天守図百分之一」「江戸城御本丸御天守閣建方之図」「江戸城御本丸御天守閣外面之図」(いずれも甲良家文書)などが残っているため、かなり正確に復元することができる。

かつての設計図にしたがって伝統工法で再建できるのであれば、「日本の伝統的木造建築技術の最高到達点」を、技術とともに後世に伝えるという意味で、価値ある事業になるだろう。

500億円を超えるともいわれる総事業費をどのように工面するのか、という問題はあるが、首都のど真ん中にそびえることになるので、インバウンドをふくめた経済効果は大きいと思われる。コロナ禍において、効果がまったく疑わしい施策に1000億、あるいは兆という単位の予算が次々と注ぎ込まれたのにくらべれば、はるかに大きな費用対効果が見込めるだろう。

かつて天守が建っていた本丸跡が属する東御苑は、一般に公開されているとはいえ皇居の一部であり、天守を復元するとなれば法改正等の手続は必要だ。また、皇居を睥睨する建築が皇居内にできることに、抵抗する声が上がるかもしれない。しかし、すでに皇居の周囲には多くの超高層ビルが建ち並んでおり、高さ60メートル未満の建物に対してそんな指摘がなされるのはナンセンスではないだろうか。