復元に際して最大の難問
このように記すと、予算等の問題をのぞけば、復元への障壁はさほどないように感じられるかもしれない。だが、じつは、別種の問題がある。それは、今日まで残されている江戸城の天守台には天守が建ったことがない、という歴史的事実である。
天守の焼失後、幕府の命で前田綱紀が天守台を再建したという話は先に書いた。石垣の築石が火災の際に焼けただれたため、いったん天守台を撤去し、まったくあらたに石垣が積まれたのである。
焼失した天守とほぼ同規模で再建する計画だったので、あたらしい天守台の平面の面積は、撤去されたものとほとんど変わらなかった。しかし、高さは違った。家光の天守台は七間(14メートル弱)あったが、再建されていまに伝わる天守台は六間(約12メートル)しかない。約2メートル低いのである。
現存する天守台に、家光による3代目天守を復元する場合、木造部分は正確に再現できても、天守台をふくめた全体には、史実と異なる部分が生じてしまう。そうかといって、石垣を積み増して高さを確保すれば、歴史遺産を改変することになってしまう。
では、現存する天守台を前提に正徳年間に作成された天守の設計図にしたがって建てるのか。しかし、そうなると歴史遺産の復元ではなくなってしまう。
江戸城天守を復元するためには、この問題がクリアされなければならない。復元される意義はあると考えるが、復元されるべき場所には、それが建つべきではない石垣が残されており、いまのところ私は、この問題の解決策を見いだすことができない。
江戸城と名古屋城の違い
しかし、名古屋城天守の復元にあたっては、江戸城天守が抱えるような問題は存在しない。江戸城天守も史料によって、木造部分をかなり正確に再現できると述べたが、昭和に徹底調査された実測図やガラス乾板写真が多数残っている名古屋城天守は、江戸城よりもはるかに精密な復元が可能である。
ただし、精密といっても、すべてが昔のとおりではない。たとえば、元来は天守建築の重量を天守台が支えていたが、熊本地震による熊本城の被災状況からもわかるように、大地震が起きたとき、その構造では安全性を担保しきれない。
このため名古屋城では、木造天守を天守台で支持しない構造が採用されるという。その点では史実どおりの復元にはならないが、見えないところに最新技術をもちいて安全性を確保するのは、むしろ推奨されることだと考える。
「焼失したものを復元したところで本物ではない(からあまり意味がない)」という意見もある。だが、名古屋城天守の場合、わからない部分は想像で補う復元ではない。失われたものとほぼ同じ形態を再現できるので、後世にいたるまで、歴史的空間を正しく理解するために寄与するはずである。