まさかの敗戦

天正13年2月5日、家康は、三河惣国の人足で三河吉良城の修築を実施し(『家忠日記』)、秀吉との対決に備え始めた。家康が秀吉との決戦に備え、修築したと推定される城は、三河・遠江・駿河の各地に及んでいるといわれる。

緊迫したなか、家康は天正13年4月から6月7日にかけて、甲斐に出陣し、甲府に滞在した。これは真田説得のための出陣であったといわれ、軍事力を背景に昌幸に圧力をかけたのであろう。家康は、昌幸説得のため使者を派遣したが、交渉は決裂し、遂に昌幸は徳川氏から離叛したのである。

真田昌幸は、上杉景勝と交渉し、7月、対徳川戦のための支援を取り付けることに成功した。家康は、自身は浜松城に戻っていたが、遂に甲斐・信濃の軍勢を真田攻めに出陣させた。閏8月、徳川軍は、上田城に籠城する真田昌幸・信幸父子を攻めたが敗退した(第一次上田合戦)。

上田城
上田城(写真=Ans~jawiki/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

真田軍は、上杉援軍と合流し、小諸城に退却した徳川軍に再戦する隙を与えなかった。信濃国佐久郡は、徳川の敗北に動揺していた。家康は、思わぬ危機に見舞われたのである。

秀吉と戦えば徳川家滅亡の危機

だが、家康の危機はさらに深化した。秀吉から、上洛し臣従するよう迫ってきたからである。拒否すれば、秀吉との対決は避けられないが、徳川家中は、あくまで臣従を拒否する姿勢を固めていた。

こうしたなか、徳川家中において唯一、秀吉に臣従すべきことを説いたのが、重臣石川数正であった。数正は秀吉との取次役であり、彼は京や大坂を頻りに往復していたこともあって、大坂城を見聞するなど、秀吉の実力をよく理解していた。数正は、戦えば徳川は滅亡の危機に陥ることを、熟知していたのである。

天正13年10月28日、徳川家中では、秀吉の要求に従うか、拒否するかをめぐって、評議が開かれた。徳川の重臣らは、あくまで拒否することで一致し、反対は数正ただ独りという状況であった(『家忠日記』『三河物語』他)。

この評議が行われる直前、信濃国松本城主小笠原貞慶が、秀吉の調略に応じ、徳川方から離叛したことが発覚した。このため、信濃で徳川氏が維持できていたのは、わずかに佐久・諏方・伊那の三郡のみで、残る八郡は秀吉方となってしまったのである。徳川の領国は、大きく縮小するのを余儀なくされた。

新たに離叛した小笠原貞慶の取次役もまた、石川数正であった。貞慶の離叛は、取次役としての数正の面目を失墜させるとともに、その責任問題にも発展することとなったのである。